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おもちゃと子どもの関係

 8個の立方体は、なんの変哲もない単純な木片です。こんなものをわざわざお金をだして、子どもに買い与えることは馬鹿馬鹿しいと思う人もいるかもしれません。

 子どもだって、いろいろなおもちゃの中から「これが欲しい!」とは決して言わないようなしろ物です。しかし、わたし達が遊んできたものの中にそんなおもちゃはたくさんあります。

 あやとりの魅力を知らない子は、決してあやとりを欲しがりはしないでしょう。ボールもコマもケン玉も折り紙も、これに似たおもちゃです。しかし、これらのおもちゃはすでに人類に何百年、何千年も愛し続けられてきました。それだけの魅力があったからです。

 おもちゃは祭りの日の縁日で商品として売り買いされるようになった歴史を持っています。ハレの日の貴重な賜物として商品価値をもちました。

 質素で、興奮することのめったにない日常を送っていた昔の人々にとっては、年に2、3度しかない祭りの日は、心が高なる特別な日でした。そこで買ってもらえるおもちゃを子どもが、どんなに楽しみにしていたか。それは今の子ども達には味わえないほどの喜びであったに違いありません。

 縁日のおもちゃの中には、大人が買って与えるものだけでなく、子どものおこづかいで買える安価なものもありました。安価なものはやがて行商人によって、全国津々浦々の子ども達の手に渡るようになり、それは駄菓子屋に発展していきました。

 そして、子どものおこづかいでは手が届かないものはおもちゃ屋で売買されるようになります。いずれにしても子ども達にとって、おもちゃはなかなか手に入らない貴重なものだったので、それは祭りの日の興奮を引きずったものでした。

 だから、縁日の彩りそのままに赤や黄や青や紫の色が塗られ、子どもの感覚を刺激する色彩が必ずと言っていいほど、ほどこされる歴史が数百年続いてきたのです。いまでも百貨店の玩具売り場や、町のおもちゃ屋に入ると、色が氾濫しています。それはそのまま縁日の彩りと一致しています。祭りの日の色彩がいまだにおもちゃにはなくてはならないもののように着けられています。

 しかし、いま、おもちゃと子どもの関係は、決して特別な日のものではなく、日常的なつながりを持つようになっています。毎日ご飯を食べるように、子どもは童具と遊んでいます。環境に支配される人間にとって、これは見逃しにできることではりません。

 子どもは遊びながら成長していきます。おもちゃはこの遊びを誘発する重要な媒介物として存在してきました。しかし「たかがおもちゃ」「まるでおもちゃみたい」という言葉に象徴されるように、おもちゃはくだらないもの、とるに足らないものと思われてきた歴史の中で、この意識はなかなかぬぐい去ることができません。あいも変わらず、一時の慰めものとして、売られ、買われてきています。

 童具館の童具は、日常食として、主食として考えられたものです。しかも、それは自然食です。ハデさもなければ、強い刺激もありません。しかし、噛めば噛むほど、遊べば遊ぶほど、子どもの精神を限りなく豊かにする栄養源になっていくものです。

 子どもにとってそれがどんな意味を持つものなのか、次回はそのことについて述べたいと思います。

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