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授業『しあわせってなに?』を地方の小学校・中学校・高校で開始します

とうとう始めてしまった

偽りのない気持ち。もう後には引きません。

7月に入ってから、公立小学校・公立中学校・私立中高一貫校で授業を行う。これまで大学や企業での外部講師をしたことはあったが、中等教育で授業を行なったことはなかった。説明会の講師は何度も行なった。授業を持つのと講師として説明するのは大きく異なる。なにが異なるか・・・?

子どもたちは透明の箱に入っている
本人はそれに気付いていない
実は周りの大人(保護者や先生)も気付いていない
オトナも透明の箱に入っていることを知らない
地方で生活する人たちは、もっと気がつけない、、、

そんなことをずっと思っていた。そんな思いを口にし始めたのが3月。そんな時、知人の一人が賛同してくれて、仲間を呼んできてくれて、また別の知人が方々に声をかけてくれて、瞬く間にこれらの授業の実施が決まった。本当に驚いた。オトナの自分ごとの共通化、とでもいうのだろうか。

子どもたちの未来をしあわせなものにしたい
今の教育をもっと良いものにしたい
今の教育に足りないものがわかっている
自分の失敗を他の人にさせたくない
簡単に気づけるものには時間をかけさせたくない
・・・・・

関連者の思いは、複数あり、同じところもあればバラバラのところもある。自分の子どもがいる人も、いない人もいる。同期が取れている部分は、一番重要な部分で、それは「みんな、未来のために動いている」ということ。

小学生・中学生・高校生と理解力が異なる。先生方との打ち合わせは、週末だったり平日の夜だったり。「この見知らぬオトナたちに、生徒の時間を託すのだからきちんと思いを伝えたい」とミーティングに参加される先生、「我々の思いも確実に先生届けよう」と私たち。真剣に、互いに優しい言葉を使いながらも、お互いの思いを調整し、融合値を授業として実施することで子どもたちの未来に関わる。授業を受けてくれた子どもたちの何人かの顔が変わったり、行動が変わったり、いつか思い出してくれたり、と、影響は限定的でもあるだろう。

あれは小学生の時だったと思う。体調が悪かったのか、そんなフリをしていたのかは定かではないが、保健室での出来事。当時はまだ水銀の体温計で、私はそれを落としてしまい、水銀が散らばった。先生と一緒に、まずはガラスを拾い集めた。次に、飛び散った水銀の球をそーっと転がしながら、大きな一つの塊にしたのはとても印象的なことだった。銀色球はあたかも小さなビー玉のように散らばり、それを集めると銀色の、大きな、ちょっと潰れた球になった。今やっていることは、どうも、同じ思いを持つ人と、別々の水銀球を持ち寄り、合体させて、大きな球を作っているようなものなのだな、と思った。この球は多分、どんどん大きくなり、分割され、また大きくなり、分割され、を繰り返し、適度な大きさを保ちならが日本と世界に広がっていく。(予定です。)

話は変わるが、子どもでもオトナでも、「あの人の言うことは正しい」と思ってしまうことや、知らず知らずに思い込んでいることは多いと思う。私も、それで痛い目にあったことが何度もある。

小学生の時、卒業旅行に米国視察ツアーを申し込んだ。富山の子どもが、だ。(ここまでは、私も画期的な小学生だった。)ところが、高校生のいとこのお兄ちゃんが「英語ができてから行った方がより意味がある」と。その言葉を間に受け、「2度と行く事がないかもしれないから、高校生になってから、英語が話せるようになってから行こう」と考えを変えて、その旅をキャンセルした。「高校生になったら誰もが英語を話せるようになる」と思い込んでいた私だったが、もちろん、英語は話せるようにならなかった。周囲を見ればわかったはずなんだが、富山の田舎の高校生で英語が話せる人は稀。(運悪く、私の)従兄弟がたまたま英語ができた、と後で知った時に、「ああ、あの時、アメリカに行くべきだった」と後悔したのが最初の「誰かの言うことを鵜呑みにした失敗」だった。

こんな話をいくつもしても仕方がないので、話を戻す。自分にも思い当たることがあるなあ、と思った方があれば、ぜひ私と一緒に、「今からでも遅くはない」とやりたかったことを実行してくださいませ。

さて、デンマーク株式会社には、webには記載してないが、「 HAPPINESS 研究所」を1事業として準備するつもりでいた。それが奇しくも教育事業の最初の授業のテーマになったのは、やはり、私はデンマークの魔法にかかっていると思わざるを得ないものだった。

授業名は「しあわせってなに?」。小中高校生にそれを問うのだから、自分自身のしあわせをきちんと言語化しておかないといけません。日本人はすぐ「年齢による」と言う断りをつけたがる。私も若い時にはそうだった。が、子ども時代を経て、子育ての最終段階まで来た今となっては、それも違うと思うようになってきた。その時々で違うのはそうかもしれない。しかし、ベースにあるものはこんなことではないかと思う。
・自分のしたいことがある/できる
・言いたいことを言える
・寄り添ってくれる/寄り添いたい人・コトがある

言葉は違っても、子どももオトナもこんなことがシアワセに繋がる気がする。最近は、誰かに助けていただくことが本当に多く、生きると言うことはなんと「ありがとう」を言うのとセットになっている事象が多いものかと感じている。

事業のロゴを考えたり、授業を受ける子どもたちになにを感じ、持ち帰って欲しいかをディスカッションしたり、私たちのミーティングは大抵が22:30から始まる。オンラインなので、そこがみんなが一番安心して自分の時間が充てられる時なので、なんの問題もない。(が、先日、私はその前に寝てしまって、ミーティングをすっぽかしてしまいました!ごめんなさい。)

これまでは自分の年齢を理由にして、「途中で死んでしまったら」と実現に時間がかかることはしてはいけないと思い込んでいた。別の友人が、「教育は、次の世代が引き継いでくれるから、途中で死んじゃってもいいんですよ!」と言ってくれて、それもそうかと思い直した。企業人であったときの、目標管理制度が悪く作用している、とも感じた次第です。

と言うコトで、授業「しあわせってなに?」がいよいよスタートします。ご期待下さい。


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