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父の日に思うこと--本当はできたこと--お父さんが生きているうちに、彼の望むこと、をしてあげていただけると嬉しいです

親の心子知らず
後悔先に立たず
孝行したい時に親はなし 
親思う心にまさる親心
・・・・

親に関することわざや慣用句はたくさんある。時には学校の国語の時間に学ぶこともあるだろう。時には親に言われることもあるだろう。時には、、、親を亡くして初めてわかることも、、、私だけでなく、そんな人も多いのではないかと思い、自分と同じ気持ちの人を慰めるために、そして、まだお父さんやお母さんが生きていらっしゃる人のためにも、noteを書こうと思った。

伝えたいことは、ただ一つ。
お父さん、あるいは、お母さんのやってほしいと言うことを、やってあげることが親孝行だ、と言うこと。
私は当時、そんなことに気がつかず、自分の思う押しつけの親孝行をやっていた。

父が亡くなってもう3年半がすぎた。当時は一人息子が中学3年で、高校合格が決まった頃だった。その半年ほど前に父は脳梗塞で倒れた。私の母が長患いで亡くなった3年後のことだった。母が倒れた時から、当時3歳ほどだった息子には、一人暮らしになった父に毎晩電話をさせると言う、半ば強制的なおじいちゃんと孫の毎日のコミュニケーションが始まった。当時ソフトバンクだけが家族間の電話を無料にしていたので、それを利用したホットランを引いたのだ。孫との電話は父がその日に唯一話をする時間であることもあったようだ。そこまで父が寂しく思っていることを、離れて生活し、正社員で子育てをしながら日々をバタバタ過ごしていた私は気づくことができなかった。父が弱音を吐いて、「寂しいです、電話ください」と私の留守番電話に残していた時も、「何言っているの、仕方ないじゃない」と冷たいつもりはなく、心配しながらも電話を掛けた。今思えば、毎月富山に週末帰省するなんて、どれだけでもできたことだった。どうしてそれを、私がしなかったのか?答えは簡単である。父がこんなに早くに死んでしまうなんて思ってもいなかったからだ。

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父は昭和8年10月生まれ。生きていたら88歳になる。元大農家の10 人兄弟姉妹。5番目に生まれた。生まれてすぐに亡くなった双子の兄弟のことはあまり覚えていないと言っていた。8人兄弟の中で、高校に行ったのは彼一人だった。理由は簡単で、体が弱くて農家を継ぐのは無理だろう、と言う親の判断だったそうだ。大きな規模で農業をしていた旧家だったらしく、農業がこんなに大変なことになると思っていなかった祖父母は彼以外に高校は必要ないと考えた。しかし、数十年の歳月の中で、一番安定して生活していたのは、その体の弱かった息子だけで、農家で生きていった他の兄弟は大変な苦労をしたようだ。

母は67歳で脳梗塞で倒れ、その後は入退院を繰り返し、最後には高齢者が最後を過ごす病院で人生を終えた。最初に倒れた後は、病院がどれだけ、「お母さんを自宅で介護するのは無理です」と言われても、頑として、「家に連れて帰ります。それが彼女の願いなんです」と施設への入所を断った。絶対に無理と言われた自宅介護を、彼は5年半一人で頑張った。車で5分のところにいる息子(私の弟)にも小さい子が二人いた上に、夫婦が共に働いていた。私も似たような状況な上に、横浜に住んでいて、そう簡単に帰省できる距離ではなかった。

母のお見舞いと父の様子を見に、お正月・お盆・ゴールデンウィークに必ず帰省していた。父が私にやって欲しかったことは、病院や介護施設にいる母のそばにいてあげてほしい、だけだった。それなのに私は違うことをやっていた。一人暮らしの父は、母が健康だった頃には家事をしたことがなかった。なので、家の中は散らかり放題。台所は洗ってない食器だらけ。洗濯物はたまりっぱなし、干しっぱなし。至る所にクモの巣がはっていて、夏にはゴミ箱を開けたら、ショウジョウバエが飛び出してきた。私は激怒しながら、泣きながら掃除、洗濯、洗い物など父の住環境をなんとかしようと思った。それは父のためと言うよりは、一緒に帰省する息子のためだったのだと今は思う。小さな息子と姪ふたりに家の掃除を手伝ってもらい、自分が数日いる実家を清潔にすることに終始した。しかし父はいつも言った、「お母さんのところにいてあげて欲しい」と。私は頭でわかっていなかったから、病院や介護施設では毎日2−3時間過ごすだけだった。病院や介護施設に終日いることは耐えられなかった。しかし、私が終日いたくない場所に母は何年もいたのだ。それを理解できなかった。今思えば情けない話だ。断っておくが、病院や施設の対応や設備が悪いと言う話ではない。日本だけかはわからないが、やはり病気の人が集まる場所は、そこにいるだけで辛くなってくる。ましてや治らない病気の人が集まるところにいると、健康である自分がそこにいることが申し訳なくなることもあった。

さて、話を戻そう。では、父は私に何をして欲しかったのだろうか?そして、どんなことを母にしていたか?一人になってからはどうしていたか?

・母が(病気になった後に)生きていた頃には、私には、家のことは何もしなくても良いから、母のそばにいて欲しかった
・母に、童謡を歌う人形を買って、聞かせてあげていた。
・時々、孫ではなくて、私からの連絡が欲しかった
家に動くものがなくて寂しくなり、電気で動く色水のガラスケースを買っていた。
・母が入院していて一人でしか車に乗らないのに、8人乗りの車を買い、近所の高齢者の送迎をしてあげていた
・オンライン囲碁の対局をしていた

・私が高齢出産だったので、子育てと母の介護が重なり、電話をする時間が取れなかったのは言い訳だと今は思う。
・仕事を辞めたくなった時、「会社を辞めたら、お父さんのところにももっといけるしね」と言ったら、「お父さんを理由に仕事を辞めるのはやめて欲しい」と窘められた。
・シンガポールに行きたいな、と父が言ったのに、今年は忙しいから来年行こうね、と言っていたら、その年に父は脳梗塞で倒れた
・倒れる年のゴールデンウイークに横浜に遊びに来たのだが、富士山が見たい、と言う父を一人で静岡への行き方を伝えて、仕事があるからと一人で行くことを促した。その年に彼は倒れた。

何もかも、どれをとっても、「やろうと思えばできたこと」だったことばかりで、後悔というよりは、自分のバカさ加減が情けなくなる

父も母も亡くなり、実家を片付けていたら、私がそれまでに贈った父の日や母の日のプレゼントが、きれいに保管されていた。昔の人だから、大切にしまっていたようだ。白い傘やシャツなんかは使ってないのに黄ばんでいて、それを見るにつけて、離れて暮らした長い歳月と、自分のやらなかった、父のやって欲しかったことを思い出しては、涙が滲んだ。

言いたいことはほんの少し。
親のやって欲しいことをやってあげるのが親孝行であること。
そして、少し離れていても、顔を見せてあげて、リアルな親子の会話をして欲しい。コロナで難しいこともあると思うが、できることはしてあげて欲しい。これは、私が「できなかったからわかること」なのだ。

1月に入って、父が施設で意識不明になったからと連絡があり、富山は大雪。病院から施設に移り、1ヶ月も経っていなかった。雪の中タクシーで病院に急いだ。弟から連絡があったとき、まさか、その日のうちに死んでしまうなんて思ってもいなかった。息子と一緒に、新幹線の中でおにぎりを食べながら、パソコンで仕事をしながら富山に向かった。病院について、数分後に父は息を引き取った。「待っていたかのように」というのはテレビの出来事で、まさか自分がその体験をするとは思っていなかった。

夫が自宅を不在にし、息子も今日からインターンシップで大荷物を持って、先ほど自宅を発った。ひとりになった私は、いつかひとりになることを覚悟しながら、父に思いを寄せた。そして、まだお父さんが生きていらっしゃる方には、ぜひ伝えたいことと思い、このnoteを書いた。

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