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『花束みたいな恋をした』と「賭け」の問題

映画『花束みたいな恋をした』を観てきた。坂元裕二の新作なので公開してすぐに映画館に出かけた。観客は若い人ばかりで、ちょっとビックリした。そこで描かれていたのはそんな観客たちと同世代の若者の、他愛もない同棲時代の物語だった。大学生活の終わり頃に知り合った麦と絹はいわゆる「文化系」の若者なのだけど、表現することを生きることの中心に置くにはちょっとい(だいぶ?)才能と執着が足りない、つまり「文化的なものが好きな自分が好き」なタイプの若者たちだ。そんな二人が、ちょっとした偶然と趣味の一致きっかけに仲良くなって、勢いでなし崩し的に同棲をはじめ、二人でいる事自体が楽しい時期を経てやがて大学を卒業して働くようになり、そして倦怠期に陥って別れるまでが描かれている。その過程を描く解像度は驚異的に高く、多くの(僕のような中年の)観客がああ、こういうことってありがちだよなあ、とむず痒い思いをしながら観ることになるだろうし、多くの(僕が出会ったような若い)観客がこの先こういう体験を自分たちはしていくのではないかという生々しさを覚えて劇場を後にするだろう。それでいて、この映画は正しくファンタジーだ。長い倦怠期のあと、ただ惰性で一緒に暮らしているだけの二人はこのまま恋愛を諦めてーー他の多くの人々がそうしているようにーー夫婦になるのではなく、恋愛の終わりを暮らしの終わりに位置づけて別れることを選択する。そのことで、二人で過ごした数年間を「よい思い出」として位置づけることに成功する。少なくとも、数年後に偶然顔を合わせたときに、それなりに幸福そうなお互いを他意なく祝福できる程度にはーー。もちろん、「ここ」がファンタジーだ。たいていの場合に僕たちはこのようにきれいな別れを選ぶことはできない。いわゆる「修羅場」を経験するか、あるいはすべてを諦めて言葉の最悪な意味での「夫婦」になることを選ぶかだ。しかし坂元以下のこの映画の作り手たちは、それまでの過程の限界まで追求された高い解像度のもつ説得力の延長にこの結末を描くことで、ファンタジックな展開に最低限のリアリティを与えたのだ。その手腕には、ほんとうに脱帽する他ない。(特に主演の菅田将暉の演技は素晴らしかった。)

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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