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なぜ「ゲーム」は「攻略」するとおもしろくないのかーー「攻略」することと「つくる」こと

今回は、「ゲーム」について考えてみたい。1978年生まれの僕はいわゆる「ファミコン世代」なのだけれど、その割には趣味の中心にコンピューターゲームを置いたことがない。もっといっていまえば、僕は少年時代からゲームよりもマンガやアニメのほうが好きだったのだ。そして僕は以前から自分はなぜそこまで「ゲーム」が「好き」ではないのだろうとずっと考えてきた。その考えをまとめたのが、今回掲載する文章だ。これは僕が雑誌「そだちの科学」2023年4月号に寄稿したもので、先月末に出した『ひとりあそびの教科書』の後半に収録されている文章のもとになったものでもある。自分で言うのもなんだけれど、大切なことを論じていると思うので、ぜひ目を通してもらいたい。


●三世紀の中国、天下の統一を目指して


 職業柄、どんな大学生活を送ったのかと尋ねられることが多い。見栄を張っても仕方がないので、僕はいつも正直に答えている。僕が大学生の頃に一番時間を使ったのは「三国志7」というコンピューターゲームだ。この「三国志7」は、三世紀の中国(三国時代)を舞台にしたゲームだ。
 プレイヤーは、その時代を生きた武将たちから一人を選んでプレイする。劉備や曹操や諸葛孔明といった有名な武将を選ぶこともできれば、中国ですらあまり知られていないような名もなき武将を選ぶこともできる。そして、実際には存在しない武将を新しく作って彼/彼女を選ぶこともできる。そして、プレイヤーは選択した武将になりきって、戦乱に明け暮れる中国を生きる。担当している武将が劉備や曹操や孫権といった勢力のリーダー(君主)なら、自分たちの勢力全体がどう行動すべきかを指示することになる。当時の中国は数十のエリア(いまの日本で言うところの県)に分かれていて、太守というそれぞれのエリアの担当者(知事みたいなもの)に対して、お前たちは隣のエリアを攻める準備をしろとか、おまえたちは開墾や商業をがんばれなど、おおまかな指示を与えていく。そうして最終的には中国全土の征服を目指すのだ。ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
 あるいは、自分が選んだ武将が「太守」ならば、その「君主」が決めた大まかな指示に従って、具体的に自分の担当エリアを切り盛りしていく。太守の下にはだいたい何人か部下の武将がいる。もちろん、この一般の武将を選択することもできる。一般武将を担当したときは、太守からの命令をひたすらこなしていき行政の仕事をしたり戦争で戦ったりする。余った時間で個人的に訓練したり勉強したりすることもできる。知力の高い武将は「軍師」というその勢力の作戦参謀として、君主の片腕になることもできる。こうして、思い思いのまま三世紀の中国を生きることができる。
 僕は小学生の頃から三国志が大好きだったこともあって、このゲームをやり尽くした。もう本当に、何百回中国全体を統一したか分からない。

●ゲームを味わいしつくすと「攻略」しなくなる

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 ゲームを始めた頃は、自分の名前を付けたオリジナルの武将をつくって、彼に劉備や曹操の有能な部下になって活躍させていた。なれてくると、もっとマニアックな武将の配下になって彼 の天下統一の夢を叶えるために力を尽くすようになった。あるときは、反乱を起こして自分がその勢力を乗っ取り、自分の手で天下を統一した。しかし、何十回と中国大陸を統一しているうちに、虚しくなってきた。ゲームに慣れてきて、だいたいどう行動すればどういう効果が上がって、どう展開するかがほぼ完璧に予測できるようになってきたのだ。
そこで、僕は考えた。自分が自分の分身のプレイヤーを扱っている以上は、状況をほぼ完全にコントロールできてしまう。これではちっとも面白くない。そこで、僕はゲームにある「委任」という機能を使うことにした。これはそれまでプレイヤーが操作していた武将を、途中からコンピューターに操作させる機能だ。これを使うと、プレイヤーはただその後の変遷を「見守る」だけになる。僕はこれにハマった。まずゲームを始める。いつもどおり、自分の名前の武将を作成し、彼に思う存分、古代中国で暴れてもらう。そうすると、歴史が歪む。ゲームの中の時間で数年プレイすると、僕の介入で勢力図はひっちゃかめっちゃかになる。そして僕はプレイを「委任」する。するとそれまで扱っていた僕の分身はコンピューターが操作することになるのだ。
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 コンピューターはプレイヤー(僕)ほどゲームの攻略法には通じていない。僕が操作すると、確実に数十年で所属する勢力に中国大陸を統一させることができる。しかしコンピューターは違う。そのため、僕が操作するとほぼ完全に予測できる歴史の展開は、コンピューターに「委任」することで毎回まったく違うものになっていく。どの勢力で、その程度、どうプレイして「委任」するかで、その後の中国の歴史はガラリと変わってしまう。その予測不可能な展開の見せる面白さは、どれだけ繰り返しても僕を飽きさせなかった。ゲームを極めると、人はゲームをしなくなるのだ。ゲームの面白さを最大限に引き出そうとどこまでも考えていくと、最終的にプレイヤーは最後は自分自身をゲームから排除してしまうのだ。なぜならば、自分自身はコントロール可能で、コントロール可能なものはある程度は予測がついてしまうからだ。そして人間は予測がついてしまうものを面白いとは思わなくなっていくのだ。
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 そう、ゲームの本当の面白さを引き出したければ、普通にプレイしてはいけない。プレイヤーが、普通にゲームを「攻略」するとき、そのプレイヤーはプログラマーが組み立てた道を、指図どおりに歩いているだけに過ぎない。それはそれで面白いのかもしれないけれど、それは「ゲーム」の面白さを半分も味わっていない。ハンバーガーのパンだけを食べているようなものだ。餃子の皮だけを食べているようなものだ。焼肉のタレだけを舐めているようなものだ。ゲームの本当の面白さは「攻略」にはない。プログラムされたゲームを分析して、別の遊び方を発見すること。誰かが作ったゲームを、自分のルールを作って別のゲームに書き換えてしまうこと。そうすることで、ゲームは本当の面白さを発揮する誰かがプログラムしたゲームを攻略するとき、目の前にあるゲームはひとつだけだ。しかし自分でそのゲームの別の楽しみ方を発見しようと思ったとき、ゲームの楽しみ方は無限大になる。誰かがプログラムしたゲームを攻略しているうちは、君はまだゲームに遊ばれている。本当にゲームが好きなら、ゲームに遊ばれるのではなくゲーム「で」遊ぶべきだ。そのほうが何十倍も、何百倍も面白いし、何より「終わり」がない。

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