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『silent』と「リア充」の問題

ようやく『silent』の最終回を観た。作品そのものは丁寧に構築された良作、くらいの評価でよいのではないかと思う。特に第8話の風間俊介と夏帆の演技は素晴らしかった。

しかし、ここで取り上げたいのはこの作品に終始つきまとっていた奇妙な「狭さ」のようなもので、それはもしかしたらこの国のテレビドラマ、ひいてはテレビ文化そのものの問題を象徴しているように僕には思えるのだ。

予定調和というコンセプト

この『silent』は俗にいう「難病」ものの系譜に属する。高校時代の恋人同士が、社会人になって再会する。しかし彼氏のほう(目黒蓮演じる「想」)は病気で失聴しており、そのために高校時代の友人たちとは関係を絶っている。そして彼女(川口春奈演じる「紬」)が想のために手話を学び始めたことをきっかけに、二人の周辺の人物を巻き込みながら三角関係などの物語が展開する。物語の展開自体は予定調和的で、特筆すべきものはない。むしろ安心して視聴できる予定調和の展開の中で、登場人物の心理をじっくり描くというコンセプトだったのだろう。しかし、僕にはこのコンセプトが特に終盤でうまく機能しなくなっていったように感じた。特に脇役である「春尾(風間俊介)」と「奈々(夏帆)」の過去を描く8話以降は消化試合のように段取りをこなしているようにしか思えず、集中して観ることが辛くなることも多々あった。厳しい見方をすれば、若手の主役たちに画面を支える力がないということになるのだろうけれど、僕はここには前述の「狭さ」の問題が象徴的に現れているように思えるのだ。

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