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レベッカ・ソルニットの身体論とサイバースペースの社会的身体

 今回はレベッカ・ソルニットの身体論について少し考えてみたい。「マンスプレイニング」という言葉を生み出したことで有名な彼女だが、個人的には『ウォークス 歩くことの精神史』に大きな影響を受けている。

これは「歩く」ことの文化史を再構築している本なのだが、今回取り上げるのはどちらかといえば横道にそれた、終盤にやや唐突に登場するソルニットのポストモダニズム批判だ。

 ソルニットは『ウォークス』(2000年)においてポストモダニズムという言葉が代表する20世紀後半の思想の潮流は移動性と身体性を大きな主題に設定しながらも、そこで論じらている「移動」と「身体」の概念がともに貧しく、単純化されていることを指摘する。個々人の認識や思考にはそれぞれの身体の置かれた場所が与える条件が枠組みとして働いている。人間はその身体が置かれた環境から自由に感じ、考えることはできない。このいまや常識的な一般論となった前提をソルニットは否定しない。しかし、このときポストモダニズムが前提としていた「移動」と「身体」の貧しさ、単純さを彼女は問題視する。
 ノマド、脱中心化、疎外、脱領土化、境界、移民、亡命ーーその証拠にポストモダニズムの主題である「移動」は、その身体観の淡白さによって空回りしている。たとえばこれらの思想には移動手段についての思考がほぼ存在しない。自らの足で歩くこと、馬やラクダの背に揺られること、船に乗ること、自動車、列車、そして飛行機ーー彼らの思考からは移動する身体という発想が根本から抜け落ちている。その結果として移動という概念をもて遊び、ときに賛美しながらもどのように移動するのか、つまり移動手段についてはほとんど論じていない。
 この移動手段についての無頓着さは、これらの思想の身体観そのものの単純さ、貧しさに結びつく。ポストモダニズムの扱うこれらの身体は(ロレンスのように)灼熱と乾きに苦しむこともなければ、異種の生物に遭遇することもない。このような身体は静的なオブジェクト(もの)に過ぎない。この単純化された身体は理論上の、いや架空の身体でしかなく「輸送される小包に過ぎず、別の升目に移されるチェスの駒でしかない」。

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