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「誰でも〈つくる〉ことができる環境」は豊かな文化を生むためには重要だけれど「それだけ」ではダメだという話


昨晩は『風の谷を創る』の僕(と御立尚資さん)の担当する全体デザイン班のミーティングだった。

今回は「空間デザイン」班や「食と農」班のメンバーも出席した拡大版だったのだけど、そこでの議論を通して考えたことについて、今日は書きたいと思う。それは結論から言うと「クリエエイションの民主化」、つまり「誰でも〈つくる〉ことができる環境」は豊かな文化をつくる上で重要だけれど「それだけ」ではダメだということだ。じゃあ何が必要なのか。僕の仮説はなら、それは人間を襲い、傷つけ、飢えさせる事物だ。その理由をここから書いて行こうと思う。

僕はもちろん、クリエイションの民主化を否定しない。むしろそれに大きく期待している。だからこそ盟友・濱野智史の仕事を度々参照し、「庭プロジェクト」にパターン・ランゲージの研究者である井庭崇を招いている。

しかし……というか「だからこそ」僕は「みんな」が作れる環境を手に入れるだけではダメだということを確信している。理由は単純で人類のほとんどの人はとくに「作りたい」と思っていないからだ。

これはかつてWeb2.0に夢を見て、そしていまひどく失望している人なら(けんすうさんとか)すぐに分かるはずだ。人類はSNSプラットフォームによって「発信」能力を(特に専門知識がなくとも)手に入れた。しかし大半の人間が手を染めたのは、創作ではなく「承認の交換」だった。そりゃあそうだろう。ほとんどの人は発信する「動機」がない。あるのは誰かに認められて気持ちよくなりたいという「承認」への欲求くらいだ。

そして多くの人たちが、もっとも「コスパよく」承認を得られる方法として「人の悪口」をいうことを選んだ。特に政治的に敵対勢力を貶める投稿のパフォーマンスはよく、これを活用した集票(トランプ)やジャーナリストの売名、フェイクニュース・ビジネスなどはすっかり定着し、民主主義の危機すら呼んでいる。(僕はSNSを通じて「声を上げる」ことが今後の民主政治の基礎になると考えるからこそ、この問題を非常に重視する。)

同じことがクリエイションにも言える。どういうことか?

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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