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全力を出して走る。ただし、ゆっくりと

 ここ2年あまり、僕と仲間たちは「遅いインターネット」というキーワードを軸に考え、行動してきた。ほんとうにことあるごとに、このキーワードについて書いて、語ってきたので、もう耳にタコができるくらい聞いた、その話はもういいよ、と思っている人も多いかもしれない。でも、これからしばらくはもっとそうなるはずだ。なぜならばまずは僕が「遅いインターネット」という題名の本をこの1年くらい書いていて、それが来月出るからだ。

そして(実はこっちのほうが重要なのだけど)同じくこの1年コツコツと準備していた「遅いインターネット」をコンセプトにしたウェブマガジンがオープンするからだ。そもそも「遅いインターネット計画」とはこのウェブマガジンと、併設するワークショップの両輪からなるプロジェクトだ。この計画で何を成し遂げたいのか。詳しいことは、この記事や、この記事この記事を読んで欲しいし、何より2月に出る本を読んで欲しい。そこにはなぜ「遅い」インターネットなのか(なぜ「速度」が問題なのか)、とか民主主義をどうしたらいいのか、とかそのためにメディアやジャーナリズムはどうあるべきか、とか、そのことで今の世の中のかたちを決めている「つながり」と「分断」をどう再編したらいいのか、とか、そういいったことが延々と書いてある。
 けれども、ほんとうに問われるのはむしろ僕がこの本で宣言したことを、ウェブマガジンやワークショップを通じてどこまで実現できるのか、未来に向けて種を撒き、育てることができるのか、だと思う。

 実のところ僕はこの2月で、なにかが変わるとはあまり思っていない。スイッチがオフからオンに切り替わるように、一瞬で0が1になるとは思っていない。もちろん、嘘でもいいから「変わる」と言ったほうがいいのは分かっているし、幻冬舎の担当(箕輪厚介)はきっとこのnoteを読んで、余計なことを著者が書いたせいでやりづらくなったなと思うはずだ(そして、絶対にそのことを僕に告げず、全然OKだと笑って済ませることも分かっている。彼はそういう男だ)。
もちろん、僕はこの本を膨大な時間をかけて準備した。それもただ書けばいいというのではなく、「遅いインターネット計画」そのものをああでもない、こうでもないと修正するたびに本の内容も大きく書き換えなければならなかった。そのせいで、出版はどんどん後ろに伸びていった。それはこれまで僕の書いてきたどの本とも違うタイプの努力が必要な試行錯誤の連続だった。その分いいものというか、他にはまずないものに仕上がったという手応えもある。だから、いつも以上にたくさんの人に読んで欲しいと思う。そのための「読みやすさ」も強く意識して内容もコントロールした。でも、話題になっているから手にとってみよう、という動機で読み捨てられてしまっては、どれだけ話題になってもダメなんだと思っている。と、いうか何かを集中投下して、波を起こして、一気呵成に物事をひっくり返すことができるんじゃないかという幻想(「動員の革命」)に僕らはこの10年振り回され続けていたのだと思う。「遅いインターネット」はそのことに対する反省からはじまったプロジェクトだ。だから一瞬の非日常ではなく終わりのない日常にアクセスする。ためこんだ1000発の弾を1日で放出して注目を集めるのではなく、1日1発の弾を1000日打ち続ける。そうすることでしたたどり着けない場所がある。

 大事なのは、この本のメッセージが2月の、本の発売とウェブマガジンのオープンのタイミングで届くことよりも、むしろその上で僕がこの「遅いインターネット計画」をきちんと、少なくとも自分でやりきったと思えるまでやりきることなのだと思う。いや、もしかしたら最終的には「遅いインターネット」というコンセプトではダメで、他の手段を講じないといけない、という結論に落ち着くのかもしれない(世の中、一寸先は闇で何が起こるか分からない。たとえば第三次世界大戦がはじまったら、少なくとも僕の書く内容は題材レベルではガラッと変わるだろう)。でも、少なくともそのときまでに、やれることは全部試したという実感がないと少なくとも僕は自分では納得しないと思う。
 だからコツコツやり続けるしかない。半年や1年で結果が出るとは、最初から思わないほうがいい。そう自分に言い聞かせている。5年、10年を少なくとも視野には入れないとダメで、というかそれくらい腰を落ち着けてじっくりやるべきなのだと思う。告白すると僕はもっと直接的に本の発売に合わせて出版に込めた思いを書き綴って、そしてたくさんの人に興味をもってもらいたいと思ってこの文章を書き始めた。しかし、ほんとうに大事なのはこのタイミングで注目を集めること(集まるに越したことはないけれど、そりゃ)だけではないのだという思いが、書き始めてすぐに浮かんできた。

 だから、僕たちの残していくものの広がりを、長い目で見て欲しい。それはすぐ結果を出す自信がない人間の言い訳だと思う人も、きっと多いと思う。たしかにアウトプットの質の自信はあるけれど、それがどう読まれて、何を残すのかについては、自信なんてあるわけがない。だからこそ、僕は試行錯誤しながらじっくりやっていきたいと思う。
 実は僕はあの震災のあとからずっと、そう思ってきた。だから自分になりにケリをつけたいこととか、「いま」世の中に投げかけたいことを発信することをやる一方で、10年近くかけてじっくりとそのための環境を整え、読者と向き合ってきた。それが自分が「次」にやるべきことなのだと、ずっと思ってきたからだ。

 いま、この国の人々は、閉じた相互評価のネットワークの中で、どうポイントを稼ぐかだけを考えている。だから、たとえば国家が表現の自由を侵すようなとんでもない事件が起こっても、あいつがヒーローになるのは気に食わないとか、ここのボスは知事なのか市長なのかを証明したいとか、そういったほんとうにつまらない業界の人間関係ばかりが問題の中心に踊りでてきて、本当の問題を覆い隠してしまう。僕はもう何年も、こういう相互評価のネットワークの外側にどう読者をつくるかだけを考えてきた。そして、少しずつ僕のこの距離間と進入角度を支持してくれる読者と出会ってきた。小さいけれどそれなりに継続していけるかもしれない足場を、もしかしたら固めることができたのかもしれない。そう思えたのが、1年と少し前だ。

 僕らが油断したり、間違えたり、サイコロを振って出た目が悪ければ、僕たちは失敗するかもしれない。いや、長く続ければ続けるほど、たくさんの失敗をすると思う。というか、そもそもあるアプローチを選択することではじめてできるようになることもある反面、そうすることで逆にできなくなってしまうこともあると思う。だから、これからなにかやろうと思う人は、僕たちのやることをちゃんと反面教師にして、後に続いて欲しい。こういう気持ちでいられるのは、やはり「遅い」アプローチを、まとまった時間をかけてじっくり試してみようと決めたからだ。だから失敗する(しないに越したことはないけれど)ことも含めてたくさんのものを残せるようにしたいと思うし、再挑戦のチャンスは僕が生きている限りあると思う。僕はこうして、長期的に試行錯誤を続けられるための環境を、走り続けるための足腰を手に入れることにこの数年のあいだ一番時間と労力をつぎ込んできた。なので、長い目で見てくれるととても嬉しい。そして、できれば一緒に走ってほしい。全速力でなくて構わない。いや、全速力ではいけない。ときには全速力でダッシュするかもしれないけれど、そのことで足を痛めたり、息切れして長く走れなくなってはいけないと思っている。僕たちはだから全力を出して、ただしゆっくりと走り「続け」る。ゆるゆるとでいいから、いや、むしろゆるゆると付き合って欲しい。

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。