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『鎌倉殿の13人』と「悪」の問題

月末に向けてバリバリ更新します(予告)

今月前半は、非常にバタバタとしていてこのnoteの更新に少し間が空いてしまった。しかし3の倍数の月(12月)は終了するテレビドラマやテレビアニメが多く、特に今季は語りがいのあるものがたくさんあるので、ここから年末に向けてペースをあげていきたいと思う。

さて、今回取り上げるのは昨日(12月18日)に完結した三谷幸喜『鎌倉殿の13人』だ。これは多くの三谷幸喜や大河ドラマのファンが口をそろえるように三谷幸喜のテレビドラマの新境地であり、現時点の最高傑作なのも大河ドラマ史においても決定的な作品になったことも間違いないだろう。僕もこの評価に異存はない。その前提の上で、三谷幸喜という作家にできることと、できないことがこれほどハッキリした作品もないだろう。今回は主にそのことについて考えてみたい。

いつものことだが僕は現在の、特にインターネットで支配的な「みんな」で同じ作品のことを褒めそやして、安心感を得る作業にあまり関心がない(それが楽しい人がいる、というのはよく分かる)。したがって創作物を用いて誰かとつながって安心するためではなく、創作物について考える(批評する)ためにこの文章は書かれている。前者をノイズなく楽しみたいと考える人が後者の書き手やそれを好む人を自分たちの気分に水を差すものとして攻撃することも少なくないが、そういう人たちは一度自分たちが何をしているか鏡をじっくり見て考えてみたら良いと思う。(こういう断り書きをしないと、人気作には言及しづらい社会になってしまったことは、本当に不幸なことだと思う。)

大河ドラマとシット・コムのあいだで

さて、本題に入ろう。この『鎌倉殿の13人』の最大の長所は、端的に述べれば三谷幸喜がこれまで培ってきた、シット・コムを応用した群像劇の手法で、鎌倉幕府初期の血なまぐさい粛清劇を語るというそのコンセプトにあったのではないかと思う。これが三谷幸喜が最初に手掛けた大河ドラマ『新選組!』の手法をアップデートしたものだ。

シット・コムというのは、「シチュエーション・コメディ」の略だ。ラジオやテレビの連続ドラマの形式の一つで、主に登場人物や舞台が固定(特定の部屋など)されていて、状況設定で笑いを生むためにこう呼ぶ。日本ではアメリカのホームドラマ『フルハウス』などが有名だと思う。

このシット・コムの台詞回しや物語構成を通常のドラマに応用して、登場人物一人一人に視聴者を惚れさせるのが三谷幸喜の得意技だ。それを陰惨な粛清劇に用いることで、中盤以降毎週一人ずつ殺される登場人物の悲劇性が、より強く視聴者にアピールされるという構造がここに完成するのだ。

三谷幸喜は卓越した技術で膨大な登場人物に割り振られた短い出番のなかで確実にその登場人物の、それもテンプレートに頼らずひとひねりもふたひねりもある愛らしさを描き出し、視聴者に彼ら彼女らを好きにさせてしまう。もちろん、この脚本に応える俳優や演出にも高いレベルが要求されるのだが、やはりコンセプトは三谷の脚本によってもたらされている。時折やりすぎて楽屋が、というか笑いながら撮影しているところが透けて見えるところがなくもなかった(最終回の隠岐に流される後鳥羽上皇や、三浦義村の露出狂演出など)が、これくらいなら微笑ましく思える範疇のはずだ。
視聴者のほとんどがWikipediaなどで史実を確認しながら観ていることを前提に、概説のどれを取り入れ、どう創作物に昇華するかという現代に歴史ものを扱うときに欠かせない楽しみの提供についても、三谷自身が楽しみながら書いていることが伝わってくるところも含めてうまく機能していたように思う。

さて、その上で考えてみたいのが三谷幸喜という作家の限界についてだ。

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