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『機動戦士ガンダム 水星の魔女』と「戦争」の問題

やはり先日完結した『水星の魔女』については書いておきたい。詳しくは来週の座談会で話すことになるの思うのだけれど、とりあえずかんたんに論点をまとめておこう。

第1シーズンの完結後に、僕は本作について2つの疑問を呈した。1つはこの作品のアニメーションとしての凡庸さの問題だ。本作は映像作品としての演出上の企みがほとんど存在しない作品だ。しかしここについては、演出的な凡庸さを超展開を駆使した脚本でカバーしているとひとまずは言えるだろう。別の表現を用いれば毎週日曜日の夜にTwitterのタイムラインをザワつかせることに注力された作品だと言うことができるし、もう少し意地悪な表現をすれば、「どう表現されているか」ではなく「何が描かれているか」のレベルでしかものを見ることのできない今どきの「映画を倍速で見る人たち」に向けたチューニングに成功した、ということになるのだと思う。ここに対して僕はやはり手放しでは肯定できないが、この点を批判することはアイスクリームに「冷たい」と文句を言うようなものではないかとも思う。もちろん、冷たいものを食べすぎるとお腹を壊すのではないかと指摘することは有効だろうが、それはもはや半分は作品の質を問う言説ではなく別の問題だ。

したがって論点は2つ目の疑問に絞られる。それはこの作品は「箱庭」を壊すことができたのか、という問題だ。『水星の魔女』の最大のコンセプトが「ガンダム」シリーズが反復して描いてきた「架空年代記」と、同じようにこの国のアニメーションの想像力が培ってきた学園という「箱庭」との接続にあったことは間違いない。前者は『宇宙戦艦ヤマト』的に偽史への接続を通じてロマンチックな非日常の快楽を提供するもので、後者は『うる星やつら』的に歴史を忘却させることで反復される日常のゆりかごの安心を提供するものだ。これらはこの国のアニメーションが追求してきた2つの快楽なのだが、この『水星の魔女』はこの2つの一見離れた世界を接続し、そしてそのどちらにも綻びをもたらすというところに面白さがあったように思う。

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