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「もう一つの東京オリンピック計画」を通して、オリンピックを止められない僕たちの社会を考える

 僕は、6年前に自分の主催する雑誌で「オルナタティブ・オリンピック・プロジェクト」というものを発表した。これは、2020年に開催する(はずだった)東京オリンピックの「自分たちならこうする」という「対案」をまとめた夢の企画書だ。僕はこの東京オリンピックの開催に誘致の段階から反対だった。それは、ビジョンがないからだ。1964年に開催された先の東京オリンピックには明白なビジョンがあった。敗戦からの復興から高度成長へ。生まれ変わった日本を内外にアピールしつつ、経済を牽引する産業のために必要な環境を整備するというのがそれだ。首都高速道路をはじめ東京は大改造を受け、東海道新幹線もオリンピックに合わせて開通された。カラーテレビの普及も大きく後押しされた。国威発揚と、必要な開発を一気に推し進める錦の御旗とすること。それが、(結果的に生まれたものだったにせよ)1964年の東京オリンピックのビジョンだった。

しかしこの2020年に行われるはずで、2021年に延期された東京オリンピックはどうだろうか。せいぜい、なんとなくオリンピックが来たら「失われた30年」の右肩下がりの現実を一時的に忘れることができるのではないか、「日本が元気になるのではないか」というぼんやりとした期待が漂っていただけだったと思う。だから僕はオリンピックに反対だった。某広告代理店がテレビタレントを動員して仕掛けた「私、○○は東京オリンピックの誘致が成功したら……をします」とお笑い番組のノリで「公約」を掲げるキャンペーンを目にしたときは、サムすぎてほんとうに絶望的な気持ちになった。なんというか、この国の社会の一番ダメなところというか、空回りをしている部分を象徴するものを目にしてしまったと思ったからだ。

そして、僕は仲間を集め、ひとつの計画をはじめた。それが「オルナタティブ・オリンピック・プロジェクト」だった。僕はこの東京オリンピックを根本から批判したいと考えていた。しかしどうせ批判するのなら「……ではない」というかたちで批判するのではなく「……である」というかたちで批判したいと考えた。当時は既にTwitterを中心に週に一度失敗した人や、目立ちすぎた人を集団リンチにかけて自分たちは「正しい」「まともな」側にいると安心する文化が定着していて、僕はそういったものにも軽蔑しか感じていなかった。だから自分はこの誘致に反対だ。しかし、どうせオリンピックをやるのならここまでやらないと意味がないのではないか、という「対案」を示すことで建設的な批判を試みようと思ったのだ。

プロジェクトには多くの仲間が集ってくれた。チームラボの猪子寿之が開会式と競技中継のアイデアを提出し、ジャーナリストの乙武洋匡が以前より提唱していたオリンピックとパラリンピックの融合案を、ゲーム研究者の井上明人を中心にあたらしい競技の開発というかたちで具体化していった。東京の都市開発については、建築家の門脇耕三と社会学者の南後由和を中心に、東京のエリアごとの再開発のアイデアをまとめていった。表紙はレゴビルダーの三井淳平が新国立競技場のザハ・ハディド案をレゴで立体化し、それを撮影した。広く知られているようにこの案はその後予算の肥大を理由に廃案にされたので、ザハ案を立体化したのは三井淳平だけ(?)になった。

このとき僕たちはこの架空のオリンピックの計画でこれからの社会はこうしたらいいのではないかというビジョンを表現した。それは、20世紀を通して国威発揚の装置として「ばらばらのものを、ひとつにまとめる」装置として利用されてきたオリンピックを、21世紀的な「ばらばらのものがちが、ばらばらのままつながる」あるべき社会のビジョンを示すものにアップデートする作業だった。

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こうして、1年半ほどかけて作り上げた(途中、資金が足りなくなってクラウドファンディングをした。あのとき助けてくれた人たちのことは一生忘れない)「オルナナタティブ・オリンピック・プロジェクト」だが、発売当初はまったく売れなかった。当時オリンピックのことを注視しているのは僕たちくらいだった。だが皮肉な話だけれど、発売から少し立った後にオリンピックは先述した競技場の立て直しのザハ案の廃案騒ぎと、公式エムブレムの盗用疑惑でオリンピックは大きな注目を浴び、雑誌はこのときに少しだけ売れた。僕たちの「……である」という形での、対案を示すかたちでの批判よりも、ワイドショーや週刊誌の(そしてSNSの)「どこかで誰かが甘い汁を吸っている」という苛立ちのほうが効果的に関心を集めることに成功していた。

それから6年ーー僕はこの「オルタナティブ・オリンピッック・プロジェクト」の主要部を無料で公開することにした。(下記のページからPDFがダウンロードできる。)


この雑誌は商業的には失敗した。しかしその後オリンピックが近づくとじわじわと売れていった。もちろん、全体的な失敗を挽回するほどではない。何年か前に在庫を大きく処分してしまったこともあって、いまは事実上の品切れを起こしている(まさか、1年延期になり、開催反対論が盛り上がるとは思わなかった)。電子書籍化を進めているが、発売はもう少し先になりそうだ。しかし、この雑誌は「いま」こそ読み返されるべきだ。まさかの展開で、開催反対論が主流になったいまだからこそ、「……ではない」というかたちでではなく「……である」というかたちの批判が必要だと思うからだ。

6年前の出版なので、今読み返すと古くなった議論も多いと思う。しかしオリンピックを通して、これからの社会のかたちを考えぬいたこの本を今読み返すと、きっと予想以上にたくさんのものを持ち帰ることができる。オリンピックを止められない、僕たちの社会を考え直すことができる。僕はそう思っている。タイムラインの潮目に乗って考えたつもりになるのではなく、立ち止まってじっくり考えるための道具として、使い倒してもらえたら嬉しい。

(追記)
すっかり忘れていた。6月15日に当時のメンバー+αで、この「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」を通して、東京オリンピックと東京のこれからについて考えるイベントをやります。オンラインのみの開催になるのだけど、前向きな議論になるはずです。五輪についての展開にウンザリしている人はぜひ見て欲しい。


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