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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』について

最初に断っておくが、僕はこの映画にあまりいい感情を抱いていない。その理由は後述する。いま、世間(僕がもっとも嫌いな言葉だ)で、ある作品について求められる言葉は、タイムラインの潮目的に「褒めるべき」とされているものを、いかに気の利いた表現で褒めそやして(逆に「叩いて良い」とされた作品を、気の利いた表現でクサし)、大喜利的に読者を気持ちよくさせるものなのだけれど、僕はこういう空疎なコミュニケションに軽蔑以上のものを感じない。僕の関心はある創作物から与えられた、創作物だからこそ得られる刺激とそこから展開される思考の広がりを言葉にすることだ。だから、僕がこの映画についてこれから書くことも、その類のことだ。だから、「あれって良かったよね」といった類のサプリメントのような「共感」が欲しい人にはこの文章は向かないし、僕もそのたぐいの人に読んでほしいとも思わない。ついでにいうと、その手の人に必要なのは映画のような創作物ではなく、それこそ興奮剤の入ったサプリメントとか、いい匂いのする棒の類だと思う。

ついでにいうと、僕はMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)を認めるか否か、という議論にもあまり興味がない(スコセッシやコッポラの批判については、2年前に書いた本(「遅いインターネット」)で言及した)。先日も、国内のアニメシーンに深くかかわる友人から「MCUとか誰か見ているかわからない」と言われたが、それは日本のエンターテインメントがガラパゴスに発展しすぎているせいで、もちろんMCUは世界中の人が見ている。そして、だから良いわけでも、悪いわけでもない。僕は日本の大衆文化がガラパゴス的な状況にあることを頭から否定しない(世界にある表現は多様な方がよいと考える)し、「洋楽シーンとMCUをチェックしないと欧米のイケてる文化の最前線に乗り遅れる」といった具合に流行の先端を追いかけて他人にマウントを取るのが文化だと思っている人はたちは、単に文化ではなく文化が好きな自分が好きなだけの感性の貧しい人だと思う。しかし、だからと言って国内の深夜放送&インターネット配信のマニア向けアニメを中心とした世界に居直って、その世界を基準によりにもよってMCUを「閉じたもの」として批判するのはさすがに見えてる世界が狭すぎるだろう。

あと、多少更新の遅れた言い訳のようなことを書いておくと、本当は映画を見てすぐに書くつもりだった(そう、noteの担当者にも宣言していた)のだけど、ここまでずれ込んでしまったのは「モノノメ #2」の編集業務が長引いてしまったからだ(現在、先行予約中なので、ぜひ読んで欲しい)。世界中の人がウクライナの戦争のことを考えているタイミングの更新になったのもそのせいで、文章そのものの原型は半月ほど前に書かれている(ウクライナについては、僕なりの切り口で取り上げたいと準備を進めている)。昨今の「世間(本当に最悪な言葉だ)」では、なにかとつけて他人にダメ出しをして自分の株をあげようとする卑しい人が多い。少し前に、友人の周庭が逮捕されたときは、1日ちょっと声明を出さなかっただけで「なぜ、宇野は無反応なのか」と糾弾された。僕は彼女が連載をしていた日本語メディアの編集長で、彼女の支援者と対応を話し合っていた(今だから言えるが、彼女の海外発信に当局はかなり敏感であり、僕が下手な対応をすると彼女を不利にする可能性があった)。それで、インターネット上の対応に1日かかったのだが、別に数週間沈黙を貫いたというならともかく、1日対応を協議していただけで鬼の首を取ったように批難されて、心底うんざりしたのを覚えている。なぜ、僕があなたたちと同じタイミングかつ同じ方法で「憂慮」し「抗議の声を上げない」と「何もしてない」と批難されなければいけないのか。この件は、僕がSNSの相互評価のゲームに完全に組み込まれた今日の言論空間から、明確に距離を置こうと考えたきっかけのひとつだ。

さて、前置きが長くなったが『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の話をしよう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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