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與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 〈一挙配信〉 第5回 喪われた歴史:1996-97(後編)

「PLANETS note」創刊記念として、(ほぼ)毎週月・金曜に、與那覇潤さんによる連載「平成史──ぼくらの昨日の世界」を一挙配信中です。今回は、「第5回 喪われた歴史:1996-97」の後編をお届けします。
1997年の「つくる会」発足に端を発する右傾化、その背景には、基軸なきポスト冷戦期における相対主義の浮上など、複雑な世相がありました。一方、カルチャーの世界では、安室奈美恵が女子高生のカリスマとなり、宮崎駿が国民的映画監督としての地位を固めます。

死産した「歴史修正主義」

 私が歴史修正主義(者)という用語をはじめて耳にしたのは、高校2年生だった1996年ごろだと思います。歴史ではなく英語の授業で、文脈を思い出せませんが“revisionist”という単語が登場し、「日本でいうと藤岡信勝とか、西尾幹二のような人だね」と解説された記憶があるのです。もっともそのときはさほど気に留めず、まさかこの語彙が──2001年9月11日の後のterroristのように──「市民社会が忌むべき対象」として平成日本で普及してゆくとは、想像もしませんでした。

 97年の「つくる会」発足へといたる平成初期の歴史修正主義の台頭は、これまで歴史の「軽さ」がもたらしてきたものとして、いささか浅薄にあしらわれてきたように思います。日本におけるrevisionismが最初に世界で問題視されたのは、1995年初頭のマルコポーロ事件。歴史学は素人の著者(医師)が、極右思想というより純粋に推理ゲームのような筆致で「ナチス・ドイツの収容所にガス室はなかった」と唱える論考が雑誌『マルコポーロ』に載ったもので[19]、ユダヤ人団体をはじめ海外から非難が殺到。発行元の文藝春秋は同誌を廃刊とし、花田紀凱編集長の退社につながりました。

 お察しのとおり、直後の95年3月には地下鉄サリン事件が起こり、仮想戦記や陰謀史観をつぎはぎしたオウム真理教の「偽史」的世界観に注目が集まります。教団の広報担当としてテレビに反論した上祐史浩(現・ひかりの輪代表)の狂信的な熱弁は話題を呼び、「ああいえば上祐」(こういう、との掛詞)なる流行語を生むほどでした。話の内容(歴史観)じたいはチープでも、パフォーマンスで圧倒すればいい。つくる会の発足後、こうしたディベート的な心性とのつながりを最初に批判したのは、サブカルチャーと社会問題の接点で評論活動を展開していた大塚英志さんです[20]。

 近日話題になった研究書では倉橋耕平氏(社会学)もまた、ちょうど93~99年にかけて題名に「ディベート」を冠した書籍のブームがあり、ほんらい教材開発の専門家だった藤岡氏がディベート教育の分野から、歴史修正主義に参入したことを指摘しています[21]。要は歴史のアマチュアが、自己啓発ないしゲーム感覚で過去をもてあそぶのが修正主義であり、それがやがて「中韓の主張を論破したい」というナショナリズムと結託していった、とする理解ですね。

 こうした見方は、事態の一面を描いてはいるでしょう。しかし、つくる会的なものを「しょせんサブカル」に還元して一蹴する視点は、それじたいが歴史を軽くあつかう遂行矛盾を犯してはいないでしょうか。なぜつくる会の運動が広範な反響を呼び、二度の「安倍政権」の樹立にいたる政界への浸透をみせたかを説明できない。平成を歴史学者としてすごした体験に照らすとき、そうした違和感を禁じえません。

 東大教育学部の教授だった藤岡さんが、歴史修正主義へと踏み出すのはたしかに95年冒頭のこと。2月15日付で『「自由主義史観」研究会会報』を創刊(手作り感あふれる学級通信のような装丁です)、4月に第1回の「自由主義史観」研究会セミナーを開いていますが、メインの催しは日露戦争に材をとった「歴史再現ディベート 日本はハリマン提案を受け入れるべし」で、政治外交史を専門とする北岡伸一氏の参観と講義がセットになっています[22]。「藤岡信勝はディベート出身」というのは、歴史学を知らないくせにと嘲ってすませられることではないのです。

 つくる会発足前に藤岡氏が掲げた自由主義史観とは、一般には左右双方の極論から「自由」に議論すると称して、ひそかに「右寄り」の歴史観を広めるためのカモフラージュだったとみなされています。しかし、それは自明ではないかもしれない。同会報の創刊号には、早世したディベート教育の同志(厚木市の中学校教師)を悼む藤岡氏の文章が載っていますが、内容が興味深い。「原爆投下は正しかった」とするチャーチルの発言の当否を教室で討論させた事例に対し、「日本人にとって原爆投下が悪いのは当たり前であり、それをディベートの論題にするのはおかしい」と批判されたが、懇々とその意義を説いたところ「歴史ディベートの論題としてこの『チャーチル発言』をとりあげ、みずから授業されるようになった」[23]。そうした思い出が共感をこめて綴られています。

 ひょっとすると右旋回をとげぬまま、純粋な相対主義(これ自体が問題だという立場はありえますが)を掲げて歴史教育上の試行錯誤が進む可能性は、存外にあったのかもしれない。ソ連崩壊後の当時、唯物史観のような「歴史全体を貫く物語の筋」を失って苦労する教員が多かったことは事実で、だからこそ藤岡氏の実践は勢いを得たのでしょう。問題はむしろ、それが「戦後」という時代には封印されていた怨念の箱を開けてしまった──表立っては主張できなかった「昭和のホンネ」を、一挙に噴き出させる蟻の一穴となったことではないでしょうか。

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