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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第36回 第5章-3 遊び-ゲーム領域の連結現象はどう起こっているのか?|井上明人

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 時には分節化され、時にはそれぞれが複合的な概念として捉えられる「遊び」と「ゲーム」。両概念の定義について、ホイジンガ、カイヨワ、ウィトゲンシュタインらの記述から分析します。


井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第36回 第5章-3 遊び-ゲーム領域の連結現象はどう起こっているのか?

5.3 遊び-ゲーム領域の連結現象はどう起こっているのか?

5.3.1 遊び-ゲームのもつ統合的性質

(※遊びとゲームを連続的に示す記号として両者をハイフン(-)で接続して「遊び-ゲーム」として記載する。この「遊び-ゲーム」の領域は、playやgameといった語彙ではなく、概ねドイツ語spielやフランス語のjeuといった概念領域のことを指す。)
 
 「遊び」と「ゲーム」は様々な仕方で分節されるため、その概念区分のバリエーションを把握しようと思うと、細かな論点を確認しなければならなかったが、「遊び」と「ゲーム」の概念は、分節されるばかりではなく、一個の複合的な概念として運用されることも多い。
 遊び-ゲームという多様な側面を持つ概念が細かに区分して把握されるのではなく、むしろ一個の複合的な概念として構成されてしまうのは、どういうわけなのだろうか? なぜ、常に分節化されるわけではないのだろうか?
 言い変えれば、細かな概念がより大きな複合的な概念として振る舞えるのはなぜなのか、ということだ。この側面は、遊び-ゲームのもつ、一つの非常に興味深い特質として、遊び論の中でも古典的に語られてきた要素の一つであると言える。
 たとえば、シラーは個々には異なる動きや、矛盾する方向性をもちながらも、全体として調和しているのが遊び-ゲーム(spiel)であるとし、これを次のような比喩で述べる。

「私は、美しい社会の理想として、多くの複雑なターンで形づくられながら、巧みに踊られた英国式ダンス以上にふさわしいイメージを知りません。バルコニーの観客は、交錯する無限に多様な動きを目にするのですが、その動きは、決定的に、しかし気ままに方向を変えながら、けっして互いに衝突することがないのです。すべてがこのように整えられているために、各々の踊り手は、他の人が来るときにはもうその場を空け渡していています。すべてが互いにとても巧みに、しかしわざとらしくなく適合しているために、誰もが思うがままにしているように見えるのに、けっして他の人を遮ることがないのです。そうしたダンスは、個人的に主張される自己自身の自由と、尊重された他者の自由との、完全な象徴なのです。」[1] 

 シラーの議論には様々な批判があるが[2]、複数の機序がみごとに統合されたような振る舞いを見せることが、何か特殊な達成であるかのように思えるという着眼自体は理解可能なものだろう。シラーの場合は、こうした側面を持つ遊戯が極端に理想化された「完全な象徴」として述べられている。そこまで理想化すべきかどうかはさておき、この複合性・統合性がシラーを強く惹き付けた要素であることは確かだろう。
 ゲームや遊びという現象が、複数の要素が運動しあう総体として描きだされるという着想は決してシラーに限ったことではない。後述するが、特に近代のドイツ語圏では、かなり頻繁に見られる観察だと言える。

5.3.2 言語的結合(1)より大きなものとの対立:一次的現実の外側の現象として

 このメカニズムについて考えるために、英語や北欧の論者ではなく、遊び-ゲームを繋げた言葉を持つオランダ語やフランス語、ドイツ語で考えた論者たち――ホイジンガやカイヨワ、グロース、ボイテンディク、ガダマー、ウィトゲンシュタイン――らによる遊びの特徴についての記述を中心に読み直してみたい。
 論者によっても、あるいは同じ論者の別の原稿によっても、意味の重み付けはそれぞれに少しずつズレているため、すべての論者が同じ観点にたっているわけではない[3]が、いくつか共通する観点がある。



 まず、顕著なのは、遊び-ゲームが何か大きなものとの対立として意識されているという点である。
 ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』冒頭で、遊び-ゲーム(Spel) の特徴をいくつか指摘している。そこで指摘されているのは「自由」なもの[4]、「日常の」あるいは「本来の」生ではないもの[5]、時間的、場所的限定性をもったもの[6]である。
 改めて、ホイジンガの考える遊び-ゲームの「特徴」を確認すると、これらの概念化の多くが、一次的現実のフレームを分割させるような概念を扱っているということだ。
 ホイジンガの議論の多くでは、一次的現実における諸領域――裁判、戦争、詩、哲学、芸術――において、実は遊び(Spel)の側面を見出すことが可能だという主張が繰り返されている。カイヨワによる定義[7]でもこのホイジンガの観察は引き継がれている。
 この観点は、ひとつな大きな敵を設定している概念化という側面がある。さまざまなフィクションでも、実際の歴史でも、対立していた敵同士が手をとりあうのはより大きな敵が現れたときだが、遊びとゲームをめぐる現象にも、大きな対立を見出すことができる。
 このような何かの否定として、特定の領域を見出そうという発想は珍しいことではなく、むしろごくごく一般的な概念化の手法であると言っていいだろう[8]。
 上記の点から、改めて遊び-ゲームの領域の大きな敵として想定されるバリエーションを確認しよう。
 大きな敵の第一は「日常」の存在だ。日常に対する「非日常」がゲームや遊びの広範な領域を構築するという観察がしばしば見て取れる。ホイジンガ、バタイユ、カイヨワらの「聖なるもの」概念とか、ハレとケ、あるいはマジックサークルなど派生する概念が多数ある。この「日常」を一つの対立項として考えた場合、かなり広範な領域を一つの概念として括ることになる。実際、ホイジンガの論じている領域はかなり多彩で、現代日本におけるゲームや遊びの領域よりも幅広く、戦争や祭りのような活動の中にも関連する要素を見出す。その広範な領域設定によって、汎遊び-ゲーム(spel)的な視点を獲得している側面があると言えるだろう。
 大きな敵の第二は、「真面目」の存在だ。対立する概念は日本語では「不真面目」、英語で言えばFrivolity(不真面目、軽薄、軽はずみ、くだらないこと)といった語彙になるだろう[9]。本来、実施すべき行動からの離脱という形での概念形成は、古代エジプトのパピルスにまで遡ることができる。この敵による概念化も、ゲームと遊びとされる領域の双方を横断的に取り扱うことができる。
 他にも大きな敵を挙げていくならば、大きな敵の第三は「不自由」、対立する概念は「自由」だろう。第四は「生産的」、対立する概念は「非生産的」だろうか。
 特にどの概念が特権的に重要であるといえるかはさておきが、分節化の場合と同様に、概念のバリエーションを産んでしまうという特性はここでも確認できる。
 どれか一つの概念を選ぶのではなく、これらの概念を、すべて連言的(and条件)な複数条件として提示し、さらにゲーム(ルドゥス)とされがちな領域の概念である「規則」を条件として付け加えると、概ねカイヨワによる遊び jeuの定義と重なっていく[10]。  

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