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與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界〈一挙配信〉 第5回 喪われた歴史:1996-97(前編)

「PLANETS note」創刊記念として、(ほぼ)毎週月・金曜に、與那覇潤さんによる連載「平成史──ぼくらの昨日の世界」を一挙配信中です。今回は、「第5回 喪われた歴史:1996-97」の前編をお届けします。
1996年、日本の戦後史を象徴する3人の歴史家(丸山真男、高坂正堯、司馬遼太郎)が逝去。以降「歴史の摩耗」は止めどなく進行します。今回は「歴史」が生きていた最後の時期──自社さ連立政権時代を振り返ります。

「戦後の神々」の黄昏

 後世にも歴史学という営みが続くなら、平成9年(1997年)は「右傾化の原点」と記されるかもしれません。同年1月、西尾幹二会長・藤岡信勝副会長の体制で「新しい歴史教科書をつくる会」が発足(創立の記者会見は前年末)。5月には既存の保守系二団体が合同して「日本会議」が結成されます。また96年10月の最初の小選挙区制での衆院選に自民党(橋本龍太郎総裁)が勝利して以降、社民党と新党さきがけは閣外協力に転じていましたが、新進党からの引きぬきにより97年9月に自民党は衆院で単独過半数を回復、社さ両党の存在感が消えました(翌年に正式に連立解消)。

 しかし一歩ひいた目で眺めると、「つくる会」とその批判者が繰りひろげた論争にもかかわらず、この平成ゼロ年代の末期は歴史が摩耗していく──「過去からの積み重ね」が社会的な共通感覚をやしなう文脈として、もはや機能しなくなる時代の先触れだったように思えます。その象徴がいずれも1996年に起こった、3人の「歴史家」の逝去でしょう。すなわち東大法学部に日本政治思想史の講座を開いた丸山眞男(享年82歳)、京大で独自の国際政治学をうちたてた高坂正堯(62歳)、小説のみならず紀行文や史論でも知られた歴史作家の司馬遼太郎(72歳)です。

 戦後の前半期、思想史家としての本店のほかに「夜店」として数々の政治評論をものし、60年安保の運動も指導した丸山は「戦後民主主義の教祖」のイメージが強く、かえって生の肉声が知られていないところがあります。近年活字化された録音テープを基に、平成初頭の彼の発言を聞くと、そうした先入見とは違った意外な姿が見えてきます。

「マスコミはひどいですよ、『社会主義の滅亡』とか『没落』とかね。……第一に理念と現実との単純な区別がない。これは戦後民主主義〔の場合〕と同じです。現実の日本の政治のことを戦後民主主義と言っているわけだ。どこまで戦後民主主義の理念というものが現実の政治の中で実現されているのか、現実政治を測る基準として、戦後民主主義で測っているのか、というと、そうじゃないわけです」[1](1991年11月)

 これ自体は「教祖」らしい発言です。戦後民主主義というとき、たんに実態として戦後、いかなる政治が展開されたかを追うだけでは意味がない。そうではなく価値の尺度──言語化された理念として、むしろ批判的に現実と対峙してきた思想の営みこそを「戦後民主主義」と呼ばねばならない。しかし重要なのは、当時盛んに言われた「社会主義の滅亡」に対しても、同じ態度が必要だと丸山が主張している点です。眼前に崩壊しつつあったソビエト連邦の現実とは異なる、理念としての社会主義をみなければ意味がないというわけですね。

 同じ座談で丸山が出してくるのは、ハロルド・ラスキらの多元的国家論を通じて再構成された「ギルド社会主義」の構想です。国家以外の各種の社団、たとえばカトリック教会などの宗教団体や、アムネスティのようなNGO、労働組合どうしの国際組織といった中間集団が、主権国家とは別の資格で国際連合に加わる。「大学は世界大学連合というものができて、大学教育問題については国家を媒介としないで世界大学連合が決める。何もかも決めるわけではないけれども、決めたことについては各国の大学は従わなければならない──つまり強制力がある。僕の言う『プルーラリズム』というのはそういう意味です」。

 池田信夫さんが掘り起こしていますが[2]、最晩年の丸山は、現存した戦後の体制である「一国平和主義」に批判的になっていました。91年8月の談話では、「僕は社会党はホントにバカだと思う。国連の改組というのが全然出てこないの。……国連の主権国家単位を根本的に改組しなくては、独立の軍備を持たない国家は国家じゃない、という議論に対して対抗できませんよ」[3]と述べて、同年冒頭(1~2月)の湾岸戦争以降に沸騰した安全保障論争での、社会党の守旧派ぶりを痛罵しています。NGOなどの非国家組織に、主権国家と同様の発言権を持たせる「国連の改組」がなされるならという前提つきですが、丸山はPKO(国連平和維持活動)への参加も部分的に検討し、相対的には当時の小沢一郎=北岡伸一らが掲げた国連中心主義に近づいていました。

 これも意外かもしれませんが、折り目正しい学者としての風貌に似あわず、丸山眞男にはアナーキストを思わせる側面があります。60年安保のさなかに丸山は、自衛のために再軍備が必要というなら、むしろ各家庭に拳銃を配って国民自身に武装させたらよかろうと岸信介政権を皮肉るエッセイを書きました[4]。これがたんに、運動の高揚に興奮しての「売り言葉」ではなかったことを、平成初頭の座談で明かしています。

安東〔仁兵衛。構改派の社民主義者〕 先生は、江戸時代は婦女子が東海道を旅する時は短剣を持っていた、と言っておられましたね。
丸山 自己武装権です。親父〔丸山幹治〕が言ったんですよ。江戸時代は、町人にも刀一本は指〔差〕させていた、と。今のファッショは指一本も指させない、とね。それを「余録」(『東京日日新聞』(毎日新聞)のコラム、1937年1月4日号)に書いたんですよ。僕はこれはみごとだと言った、親父に。しょっちゅう親父とはケンカしていたけれども、うまい比喩だと[5](1990年9月)

 近代以前、国家の存在感が薄かった時代の庶民感覚(同じ座談で丸山は父親を「武士の子ども」とも呼んでいます)を立脚点とした、政府の統制に対する反骨の思想。東大のプロパーな政治学者にはややそぐわない、こうしたパトスは山本七平を思わせます。違うのはアナーキー(無政府)を志向する際、丸山には「コスモポリタンな知識人ゆえに」というニュアンスが強いことでしょう。93年10月のアムネスティ日本支部との会談では、「向こうの知識人なんかだと自分の思想を捨てるか、思想をとって亡命するかという選択に何度も立っているわけ。僕が戦争中抵抗したと言って威張らないのは、海外に行ってまずはじめに、なぜ亡命しなかったのかと言われたから」[6]と語っています。

 1990年11月に国連安保理が武力行使を容認する決議を採択し、多国籍軍が編成されて行われた湾岸戦争は、冷戦下では米ソ対立のために機能しえなかった国際連合が、はじめてその真価を発揮したものと受けとられました。主権国家の上位にあたる国際機関(国連のほか、当時のEC──のちのEUなども含む)の存在感が増した機会ととらえて、丸山は「国連の改組とワンセットでの一国平和主義の放棄」を模索したのですが、このときむしろ逆の方向で「脱戦後」へ舵を切ったのが高坂正堯です。

 1963年1月、弱冠28歳で『中央公論』の巻頭に「現実主義者の平和論」を載せるデビューを飾った高坂が、構想中にハーバードで丸山と真摯な討論を交わしたことは、論壇の伝説となっています。誤解が多いのですが、この論文で高坂が批判したのは中立政策であって平和憲法ではなく、むしろ「私は、憲法第九条の非武装条項を、このように価値の次元で受けとめる……日本の外交は、たんに安全保障の獲得を目指すだけでなく、日本の価値を実現するような方法で、安全保障を獲得しなければならない」[7]と明記していました。九条を文字通りに解釈して即時非武装にはできないが、しかし現実を規制してゆくために掲げる「価値」としては意味がある──この点で「理念」の役割を重視した丸山と、高坂とはそう離れた位置にはいなかったのです。

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