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【新連載】丸若裕俊『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』第1回 伝統のアップデートには日常生活のハックが必要だ

今回から、丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』が始まります。丸若さんは菓子壺や弁当箱、iPhoneケースや磁器ボトルなどの様々なプロダクト、そして茶畑からのものづくりを通して日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしています。今回は、丸若さんにとって伝統工芸はタイムレスな価値を体現するものであり、日常生活のハックこそがその本質であることについて宇野と語り合いました。(構成:高橋ミレイ)

伝統工芸のソフトウェアを現代にアップデートする

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▲「PUMA」と共に発表した「PUMA Around the bento box project

宇野 今回は連載の第1回目なので、まずは丸若さんが何をやっている人なのかという紹介から始めたいと思います。丸若さんは様々なプロダクトやお茶のプロデュース活動を通して日本の伝統工芸が現代の生活の中に溶け込むようにアップデートする取り組みをされていますが、その工芸といかにして出会ったのかというところからお伺いできればと思います。

丸若 僕は昔から「間」をすごく気にする子どもだったんですね。そもそも間や調和感を気にするようになったきっかけを考えてみると、実家が横浜の中華街や元町のエリアだったこともあって、海外のフラットで主体性のあるノリにすごく憧れていたことにあると思います。ヨーロッパカルチャーの影響の元、ファッションに出会ってアパレルの仕事を始め、スケートボードやヒップホップのようなサブカルチャーも好きになっていった。でも、段々と見た目よりもソフトウェアの方が重要で、別に何インチのパンツを履いているとかは関係がないことに気づいた時、「なんだ、自分は今までスタイルばかり気にして、僕のは猿真似じゃないか」と思ったんです。そんな心境や業界を取り巻く環境の変化もあってアパレルの仕事を辞め、地方をうろうろしていた時期がありました。

そんな時、たまたま知人に誘われて360年前に作られた九谷焼を美術館で見て、「なんだこれは!」と衝撃を受けたのが、日本の伝統工芸との出会いでした。ソフトウェアとハードウェアが完璧なバランス感覚で両立していると感じたんですね。それで知人に「これが欲しい」と言ったところ、連れて行かれた土産物屋で、さっき見た物とは似ても似つかぬ安っぽい器が並んでいるのを目の当たりにして、冗談かと思うくらいの落差を感じたんです。九谷焼の技術が360年の間にすっかり変貌して劣化してしまった。 もう一つ違和感を覚えたのは、美術館で九谷焼の器を見ていた人たちが、その作品の作り手の権威の話や値段の話をしていたことでした。僕にとっては、工芸品をそのような視点から評価すること自体が衝撃だったんです。

宇野 つまりその光景は、伝統文化がハイカルチャーに取り込まれたことで、上流階級のマーケットに吸収されてしまったことの象徴だったんですね。そして、先ほどの土産物屋で見たのは、逆に伝統文化が大衆化した問題から生じたことだと思います。「とりあえずこういう柄をプリントしておけば客は満足するだろう」という近代の工業社会のロジックです。この二つが伝統工芸を殺してしまった要因だと思います。

丸若 そうです。でも、それに誰も気がついていない。なので、この過去と現在とのギャップを伝えたいという衝動に駆られたのが、工芸を現代にアップデートする仕事を始めたきっかけです。

宇野 丸若さんのやっていることは本来の、正しい意味での「工芸」だと思うんですよね。何百年前に作られた物を、そのままもう一回作るんじゃなくて、ちゃんとアップデートしていかないと工芸の本質を失ってしまう。それは工芸というものが、日常の、生活の中に息づいているものだからですよね。

博物館の中に飾られてしまったり、アートとして権威化し、高額で取引されてしまっては生活の中に息づいているものとは言えない。

そして同時に工芸はその生活の、日常の中から深遠で、遠大な世界観、宇宙観を表現しているものでなければならない。日常の内部に存在する超越したものへの裂け目として機能していないといけない。だからそれを「とりあえず昔の椀にはこんなガラが描いてあったからこれをプリントしてしまえ」と安易にデザインして工場で大量生産してしまっては、その表現力を損なってしまう。やはりきちんと、現代のライフスタイルと対峙しないといけない。

だから丸若さんは、言ってみればもしかつての名匠たちがいま生きていたらどんなモノをつくっただろう、という視点から工芸を現代的にアップデートしているのだということはよく分かります。

ただ、やっぱり多くの人はなかなかその本質に行きつけないと思います。伝統工芸が好きであればあるほど、うっかり当時の名工の物を再現しようとしてしまいますから。丸若さんは工芸をどのようにして自分の血肉にしていったのでしょうか?

丸若 僕はプロデュースやアウトプットをする時に、手がけた物に宿る真実を伝えたいとは思っても、自分自身がプレイヤーになりたいと思ったことは一度もないんですよ。これが伝統工芸を手がける他の人たちとの大きな違いだと思います。九谷焼に出会って東京に帰ってから、人に会うたびにその良さを言葉で話すんですが、どうしても伝わらないんです。それは作品を体験した人にしか感知できないような微妙な差異をうまく言語化することができなくて、分かる人にしか分からないような言語でしか語れないからだと思います。だからと言って美術品である九谷焼きをその場に持っては来られない。ならばそれを体現する物を、自分の方法論で作るしかないと思ったんです。

宇野 つまり旧来の九谷焼きそのものを再現しようとは最初から思っていなかったわけですね?

丸若 そうですね。これは料理で言うと、エビが獲れないのにエビのスープを作ろうとしても仕方がないのと同じです。でも、エビのスープがめちゃくちゃ美味しかった時の感動は分かるのでそれと近い感動を他の食材で再現することはできるんじゃないかと考えたんです。

宇野 この感動を現代に再現するには何を素材にしたらいいだろうかということですよね。

丸若 そうなんです。

工芸を通してタイムレスの概念を感じてほしい

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▲日本の技術の可能性を追求し、前川印傳と丸若屋が作り上げた「‘otsuriki’ Collect of Japan

丸若 僕は小さい頃から時間に強い関心があって、「もし時間を自由に行き来できたら……」と空想していました。そこで僕の人生と仕事に共通するテーマとして「タイムレス」を掲げています。これは時間には前も後ろもなく、全てをつながっているものとして捉える概念と定義しています。そこに理論的な裏付けはありませんが、僕にとっては、まさに工芸こそがタイムレスの概念を体現しているんです。

多くの人は時間軸の中に過去と未来があると思っていて、工芸を過去の象徴であると見なしています。これはタイムレスとは真逆の認識なんですよね。だからこそ僕は工芸を通してタイムレスという感覚を人々と共有したい。そうすれば、みんなの愛やエネルギーがそこに向かうことで、より上質な一歩が生まれると思うんです。僕のプロデュースの仕事は、それを目指して日本の伝統文化や工芸を、現代や未来の形にアップデートするというものなんです。

宇野 具体的にどのような仕事を手がけてきたのかを簡単に教えていただけますか?

丸若 まず最初に出会った石川県の九谷焼きの上出長右衛門窯による「髑髏 お菓子壺」をプロデュースしました。これはミュージアムピースとして、金沢21世紀美術館や森美術館に展示されています。

もう少し複合的な仕事としては、PUMAとのコラボレーションで製作した弁当箱があります。職人さんによる「Traditional Handcraft (伝統的工芸)」と、ハイテク技術によるインダストリアルな「Ultra Modern Handcraft (現代産業工芸)」の2つのラインから構成されていて、どちらも日本の技術によって作られています。これもタイムレスの概念を具現化した作品ですね。さらに、チームラボ作品を納める特製桐箱。これは初期の作品からすべて手がけています。あとは印傳(いんでん)という染色した鹿皮に漆で模様を施した素材で作ったiPhoneカバーのシリーズ「‘otsuriki’ Collect of Japan」とか。最近だと、村上隆さんのカイカイキキと秋田県酒蔵ユニット「NEXT5」との日本酒プロジェクトの一端ですがお手伝いさせていただきました。九州の波佐見の磁器で作ったプレミアム磁器ボトル3種をプロデュースしたんです。

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村上隆 × NEXT5 日本酒磁器ボトルプロデュース ©Kaikai Kiki Co., Ltd. All Rights Reserved.

宇野 これらに共通しているのは、日本のトラディショナルな工芸のシンプルさに込められた“わびさび”の美学ですよね。これらのミニマルな美学が現代的なシンプルライフやエコライフの感性と親和性が高いことを感じている人はたくさんいると思いますが、それらを自覚的に正面から引き受けて、しっかりと取り組んでいる人は意外と少ない。京都や合羽橋のお店で「最近うちの包丁が外国人に売れるんだよね」と言う人はいても、その現象が何なのかをちゃんと考えた上でアップデートしていこうとする人を、僕は丸若さんの他にはほとんど見たことがないんです。

丸若 僕は「陰」と「陽」が表裏一体であることをすごく意識していて、なぜならそこに本質があると思っているからです。「髑髏 お菓子壺」を森美術館で展示した時に、南條史生さんが「死と生の両方を感じる作品だ」という主旨のコメントを書いてくれたんですね。僕にとっては、死と生という感覚ではなかったんですけど、タイムレスを言い換えるとそういうことだと思いました。生まれた瞬間に死を感じる、過去を感じて未来を感じるということです。このようにマイナスとプラスを常に行き来する感じ方を共有してくれる人がなかなかいないのは確かかもしれません。

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▲開窯130年以上の歴史を持つ九谷焼 上出長右衛門窯と作り上げた「髑髏 お菓子壷 花詰

宇野 タイムレス、つまり時間性がないということは、究極的にはあの世とこの世との境界線がないということですよね。それは東洋的な世界の見方で、日常の生活風景の中に、あの世への入口があるということです。お盆には死んだ人間が仏間までやってくる、妖怪のような類が台所や道端に現れるのも日本ならではの世界観です。僕らが生きているこの世の生活空間の中に穴ぼこが空いていて、そこがあの世とこの世をつないでいる。この国の持つタイムレスな想像力は、そういった死生観に担保されていたと思うんです。西洋近代の枠組みの外側に出るための手段として、東洋的なものにも目を向けようということは20世紀から言われてきました。しかし我々のトラディショナルな生活感覚や生活感覚の中にある死生観までが視野に入っていないと、表面的なオリエンタリズムの域を絶対に出られないと思うんです。

丸若 死生観を感じる物は、それ自体がすごくエネルギーを持っていますよね。工芸も狂気じみた物になればなるほど、製作に関わった人たちがどれほどのエネルギーでその作品にコミットしたかが、自然と感じ取れてしまうものなのだと思います。だからといって、職人の超絶技巧でつくられた物の価値が高くて、大量生産のプロダクトは価値が低い、ということではありません。超絶技巧と同じくらい情熱を込めて開発された大量生産品には、まさに生き様というか熱量を感じます。

別の対比としてはたとえば、美術館で名画を観て感銘を受けたから、帰り際に売店でポストカードを買うことはすごく良い流れだと思うんです。両方あっていいことで、どちらが良い・悪いという議論自体がナンセンスだと思うんですよ。

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