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第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【前編】 | 上妻世海

デビュー著作『制作へ』が話題を呼んだ気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、制作という営みの根源を探求する書き下ろし連載の待望の更新。今回は昨年夏に公開された第1回に大幅な加筆・修正を施した増補改訂版の前編です。「作ること」や「書くこと」を可能にする思考の正体について、脳神経科学の知見を武器に迫ります。

上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で
第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【前編】

書く道具は進化してきた。便利になったことは言うまでもない。僕自身、特殊な事例でない限り、紙とペンで原稿を書くことはない。しかし、書くことそれ自体は以前のままのように思える。本文で示しているように、書くことは読解、修正、加筆の循環運動であり、編集者はその循環運動の手助けをし、読者は循環運動を作品化したものを読む。紙の本はその形を物質化したものだ。ウェブ上に文字があり、それを印刷することで紙の本になる。これは、逆に言えば、ウェブにある限り、ある意味では試作段階にあると言えるのではないか。紙になった本は修正できない。加筆もできない。しかし、ウェブ上の記事は未だ循環運動を行いうる潜在的可能性を湛えている。 この修正版は2019年7月2日に書かれたものを再度循環運動に載せてみた、また別の作品化である。

われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
-- 今西錦司『生物の世界』

制作の始原としての書くことをめぐって

 これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。
 僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることによって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。

 なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。
 それは、一方で思考が流れであり、他方で僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。

 例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異は、その体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。
 これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば、後者は相対的に不安定である。文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている一方で、僕の記憶は昨日の朝ごはんを思い出すこともできない。ご飯程度なら良いが、寝起きに閃いた物凄い?アイデアも布団の中でうとうとしている内に消え去ってしまう。しかし、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味それによって創造の余白があると言える。思考は、意識が設定した枠組みを超え出て連想されるからである。

 まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージ思考と抽象思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が次々に連想されていき、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。
 僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その少し虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。

イメージ、この傍若無人なるもの

 僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。
 もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましい。
 もちろん、このイメージの定義は常識的な定義と異なる。日常会話ではイメージを画像や網膜像として考えることが多いからだ。心理学者・河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、まずイメージがどの定義で用いられているか配慮するよう促している。常識と同じく、実験心理学でもイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。両者に共通するのは、イメージは単なる視覚的像あるいは画像として捉える傾向であり、外側に物質的正しさ、基準があり、あくまでイメージは外的現実との関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、イメージが主観的な場合、間違いであり、イメージが客観的対象と一致する場合、正しいとされる。その定義は前提からして問題を抱えているが、日常会話は主客の分離を前提とした方が円滑に会話が進むようであるし、再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。

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