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第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心(前編)|福嶋亮大

福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ


1、五感に根ざしたリアリズム

 小説の台頭は、それ自体が世界認識のパラダイムの変化と結びついている。私はここまで、それを初期グローバリゼーションと植民地の拡大という政治的な観点から説明してきたが、そこに心理的な次元での変革が関わっていたことも見逃せない。例えば、英文学者のイアン・ワットは名高い研究書『小説の勃興』のなかで、デカルトやジョン・ロックの哲学と、それに続くデフォーやリチャードソン、フィールディングら一八世紀イギリス小説のリアリズムの共通性について論じている。「近代のリアリズムは〔…〕真実は個人の五感を通じ、個人によって発見され得るという立場から始まっている」[1]。
 近代以前の世界認識においては、神やイデアこそが不動の「リアル」であり、人間の移ろいやすい五感で捕捉された情報は、あてにならない不規則な現象として処理された。しかし、近代の文化はこの前提そのものを転倒させ、むしろ個人の感覚器官において時々刻々と受容されるデータこそをリアルなものと見なし、それを思考の出発点とした。ワットによれば、それは「新奇〔ノヴェル〕なるものを前例のないほど高く評価」する文化への転回であり、小説は「個人的な経験に対する忠実さ」によって、この新興のリアリズムの文化における中心的な地位を獲得した。
 小説のリアリズムは、個人の束の間の感覚的反応の記録を「真実」の基盤として受け取ることから始まる。ここで興味深いのは、この新たな真実性のモデルが、当時の先端的な記録装置とも関連性をもったことである。
 例えば、ジョン・ロックの『人間悟性論』(一六九〇年)やニュートンの『光学』(一七〇四年)は、知覚のモデルを当時の写真装置であるカメラ・オブスキュラ(「暗い部屋」の意)に求めた。これは外部から入力された刺激をノイズも歪曲もなく正確に記録する「暗い部屋」のようなものとして、人間の知覚の仕組みを理解するものである。もし人間の知覚がカメラ・オブスキュラのように外界を複写できるならば、そこで得られる無数の表象は世界に近似するものとして捉えてよい――このような機械的な透明性への信頼は、小説で言えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の文体にも当てはまる。クルーソーはまるで帳簿をつけるように、自身の冒険の顛末や島での孤独な生活を詳細に記録した。クルーソーの島はいわば、さまざまな情報を取り込み整然と並び変えるカメラ・オブスキュラ、より現代的なメタファーを使えば、彼の行動履歴をビッグデータとして逐一保存する高性能の記録装置であった。
このように、小説のリアリズムの背景には、それまでは浮かんでは消えるばかりであったエフェメラルな個人的経験のデータにこそ価値を認めようとする新しい信念がある。加えて、ここで重要なのは、この新興のリアリズムが読者との共犯関係を必要としたことである。
 読者は作中のデータを、自らの経験上のデータと照合しながら、架空のキャラクターに想像上の肉づけをおこなう。小説を読むとは、キャラクターの心や思考を、断片的な情報を手がかりとしていわば「即興」で創作する作業である。作者は独立した架空の人生をそっくりそのまま再現するというよりは、むしろ読者側で起こる即興的創作をあてにして、前後のつじつまがあうようにキャラクターの記述を編集する。ごく限られた記述で説明されるだけのキャラクターの心は、あくまでフラット(=表面しかない)だが、読者はそこに心の深みを創作する。小説のリアリズムは、薄い感覚的な記述に虚構の深みを与える、読者の心の動きに依存している[2]。つまり、小説における心を創作するのは、作者である以上に、実は読者なのである。

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