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ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(前編)

本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「今世紀のロボットアニメ」論をお届けします。
20世紀のロボットアニメブームを概観し、ブームの要因となった特徴と今世紀におけるアニメファンと「ロボットもの」との距離感について考察します。
(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))

戦後アニメ史と並走してきたロボットアニメ

「アニメーション」一般から区別される意味での日本の「アニメ」が、1963年1月1日放映開始の『鉄腕アトム』にはじまるという見方は比較的共有されていると思います(もっとも当時は「アニメ」とは呼ばれていなかったわけですが)。興味深いのは同年秋に『鉄人28号』(~1966)もアニメ化されていることで、数多いアニメジャンルの中でもロボットアニメは、日本のアニメ史とほぼ重なる歴史的広がりを持っています。とはいえ現在ロボットアニメとみられる作風の原点は『マジンガーZ』(1972~1974)でしょう。このあたりの事情は、宇野常寛さんの『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版社)で詳しく解説されています。
 多くの場合、自律型ロボットであることは稀で、主人公が操縦する乗り物としての性質をもつ超兵器であることも重要な特徴です。このジャンルの代表作『機動戦士ガンダム』が「モビルスーツ」という呼称を用い、厄介なロボット定義論から距離を置いているにもかかわらず、総称としてはざっくりと「ロボットアニメ」としてまとめられてしまうのも興味深いところです。それはおそらく、『ガンダム』のヒットを受けて1980年代に数多く作られた後続作が、それぞれの世界観に合わせて「アーマードトルーパー」(『装甲騎兵ボトムズ』1983~1984)や「オーラバトラー」(『聖戦士ダンバイン』1983~1984)といった名称を増殖させすぎたことも一因でしょう。「要するにこれらは全部ロボット」なのだという直観のほうが、正確な定義に勝ったわけです。
 私がロボットアニメにおいて重要だと考えているのは、ミリタリーの想像力をかすめつつも、そこから逸れていく展開がしばしばみられるところです。本稿の話題の一部は『視覚文化「超」講義』の4‐3「ロボットアニメの諸相とガジェットの想像力」で語ったことと重なるのですが、一点だけ要点をまとめると、しばしば男性オタクの欲望と重ねられてきた「メカと美少女」というキーワードとの関係を追うことで、ロボットアニメの現状を考えることができるのではないかという見通しを持っています。ロボットアニメは現在でも数多く制作され続けていますが、特に若いアニメファンのニーズと合致することが少ないジャンルとなっている上、「アニメファン=男性オタク」の等式を作れるという幻想がそもそも成り立たなくなっています。そうした現状を踏まえつつ、今回は「今世紀のロボットアニメ」について分析してみたいと考えています。

前世紀の「基準作」だった『ガンダム』と『エヴァ』

「今世紀のロボットアニメ」というテーマを考える上で、やはり前世紀の1990年代までの展開を簡単に整理しておく必要があると思います。とりわけ私が注目したいのは、20世紀ロボットアニメの「ガジェット性」です。
 1960~1970年代のロボットアニメは、少年(後に少女も)を軍隊とは別の手段で活躍させるために最適な枠組みとして選ばれていたように思います。少年探偵ものが、警察に属することなく捜査を行うのと似ていて、軍隊組織に属さない一種の「特殊部隊もの」としての性格を帯びた作品が多いんですね。少年少女が大人以上に大活躍しなければならないというジャンル的な要請は、昔も今も「不自然だ」として嫌われることが多く、しばしばミリタリーマニアが「おっさんが活躍するアニメ」を求める声を上げているのをネットなどでは目にします。ですが、実際のところ、日本ではダイレクトな軍隊ものにはせずにそこを「やや迂回する」ほうが好まれているわけです。このことは萌えミリタリージャンル最大のヒット作『ガールズ&パンツァー』が徹頭徹尾「部活物」として描かれていることをみれば明らかでしょう。というのも、ここをリアリズム寄りで突き詰めていくと、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』における少年兵のようなタイプの悲惨さが前面に出ることになってしまうからです。

『マジンガーZ』がセットした、「父なり祖父なりが残した超科学兵器を用いて平和のために戦う」という大枠は、現在ではコテコテの様式美に見えるわけですが、1970~1980年代にかけてロボットアニメの対象年齢が上がっていき、登場人物の多くがハイティーンになっていったとしても、この大枠が完全に払拭されることはなく、今に至っています。高年齢化のターニングポイントとなったのは『機動戦士ガンダム』ですが、ブライト艦長の「20歳」という設定が今でもネタにされるぐらい、クルーの平均年齢を引き下げようとした無理がよく知られています。現在ではこのポジションの役は30~40代の士官が務めることが多いですが、それでも実際の軍人と比べるとロボットアニメには全体的に「引退年齢が若いスポーツ競技」に近い雰囲気が今なお漂っています。
 本稿では『ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』を主題的に語ることはしないつもりですが、両作とも大量の後続作品を生み出しており、おおむね1980年代半ばまでのロボットアニメの多くには『ガンダム』の余波、1990年代後半~2000年代にかけては『エヴァ』の余波が広く見られます。そしてもちろんこの2作は重要ですが、「比類なき独創性」を誇れるわけではなく、個々の要素を先行作品に負っていることは今ではよく知られています。『ガンダム』ならば『ヤマト』+『ザンボット3』+『宇宙の戦士』etc.、『エヴァ』であれば『ウルトラマン』+『トップをねらえ!』+『伝説巨神イデオン』etc.といったもので、このリストは任意に引き伸ばすことができるでしょう。ヒット作が後続の類似作を生み出すことは、ロボットアニメに限らずあらゆるジャンルで生じていることです。『ガンダム』や『エヴァ』は、それぞれ特定の時代のアニメにおける「基準作」として機能していたわけです。

リアルロボットアニメは何が「リアル」だったのか

 ロボットアニメは1980年代に全盛期を迎えたジャンルです。その当時のアニメ雑誌はロボットアニメの記事で溢れており、おそらく現在のアニメファンの感覚では「なぜかつてロボットアニメはそれほど人気があったのか」が謎に思えるはずです。このジャンルは現在でもコンスタントに制作され続けていますが、正直なところ、作り手と視聴者の熱量に温度差があることは否めません。それでも今なおロボットアニメが一定の存在感をみせている理由としては、単に制作サイドの熱意だけではなく、ゲームの『スーパーロボット大戦』シリーズが、ロボットアニメに対する認識を定期的に更新しているということに触れる必要があるでしょう。
『スパロボ』は過去作品に触れるためのハブとして重要なタイトルですが、今ではプレイヤーが固定層となり高齢化していることも事実です。一応私はロボットアニメに対する没入と冷めた感覚の両方を備えているつもりで、「何が何でもロボが最高」とまでは考えていません。それでもやはり、初代ガンプラブームを経験したがゆえに、凡作であってもロボットアニメに惹きつけられるバイアスがあるのでしょう。具体的に語ると、たとえば『ガンダム』では水陸両用モビルスーツが好きだったので、「それっぽい造形のロボ」が出てくると興味を覚えますが、そうした感覚を必ずしも一般化できるわけではないと思っています。
 1980年代に広まったものの、今では死語に近い言葉として「リアルロボット」があります。「スーパーロボット」との対比で定義されていたこのサブジャンルは、ベトナム戦争のアナロジーで惑星独立戦争を描いた『太陽の牙ダグラム』(1981~1983)ぐらいから広まりました。今ではほぼ『装甲騎兵ボトムズ』(1983~1984)とその派生シリーズのみが生き延びているといっていいでしょう。『ボトムズ』から生まれた「硝煙の匂い」「むせる」といったフレーズを聞いたことがある人もいるでしょう。「リアルロボット」という言葉がそれでも残っているのは、ゲームの『スパロボ』の分類によるところが大きいと思います。『ガンダム』は一応リアルロボットジャンルということになっていますが、地球連邦軍の初期モビルスーツはヒーロー系の造形であり、「ザク」に始まるジオンモビルスーツの系譜こそが「リアル」感を生み出す上では重要だったと思います。
 他にリアルロボットジャンルで重要なシリーズとしては、当初からマンガやアニメなどのメディアミックス企画だった『機動警察パトレイバー』(1988~)が挙げられます。警察が運用する重機ないしは特殊車両としてのロボットの扱いは、押井守による映画版で「レイバー」の存在感が希薄になっているところも含めて、リアルロボットを求めたファン層のニーズと、そこに含まれるある種の矛盾をよく示しています。すなわち、ロボットアニメは「子供が活躍しているのがリアルじゃない」「超能力要素がリアルじゃない」と言われていたわけですが、そのニーズに応えるべく、『パトレイバー』では当時普及していたパソコンであるPC‐98シリーズに近いOSを備え、警察物としてディテールを重視した作風で作り込んだ。その結果、人気作となりましたが、反面「これならばロボットがなくても話が成立するのではないか」というギリギリのところにまで至りました。もっとも、敵サイドのレイバー「グリフォン」など、厨二マインドを刺激するようなデザインのロボットもいるので、ケレン味も交じえたバランスの作風となっています。
 現在から「リアルロボット」を振り返ってみると、『ダグラム』は一種の白人酋長物(白人主人公がインディアンサイドに与するタイプの西部劇で、拡張するなら2009年の映画『アバター』も含まれます)で、かつ主人公機のダグラムの異様な硬さにチート感が顕著です(味方が用いるロケットランチャーの異様な強さも興味深いものがあります)。他方『ボトムズ』はというと、たしかにアーマードトルーパーの造形や運用は徹底的に泥臭いのですが、主人公のキリコが超人的ヒーローと言ってよく、『コブラ』のコブラや『北斗の拳』のケンシロウとの同時代性を感じさせます。
 この点について、興味深い事例があります。1980年代ロボットアニメの中で、現在でも根強いファンがいる『蒼き流星SPTレイズナー』(1985~1986)は、初期はジュブナイル物っぽく始まる(2013年の『蒼き翠星のガルガンティア』のロボット「チェインバー」のデザインには、レイズナーへのオマージュがうかがえます)のですが、後半はキャラデザも世界観もほとんど『北斗の拳』といった風情です。そう考えると一連の「リアルロボット」ものの大半では、ロボットの運用「以外」の要素においては、決してリアリズムが貫かれていたわけではないことが明らかでしょう。おそらく当時「リアル」と感じられたのは、プラモデルなどを通して得られたロボットなどのメカニックの「ガジェット感覚」なのだと考えられます。
 その次の世代にあたる『エヴァ』のデザインは、作中での暴走も印象深く、今なお異形として感じられるもので、人によってはロボットとみなすことに抵抗を持つこともあるほどです。なぜ抵抗が生まれるかというと、主人公サイドの属する組織「ネルフ」が「神経」という意味であることが示すように、金属的なメカニックとしての性質よりは有機的なバイオテクノロジーに寄せたデザインのためでしょう。監督の庵野秀明が同人時代に制作した『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(1983)から受け継いだスタイルは、『エヴァ』が強く特撮を意識した『ウルトラマン』オマージュ作であることを示しています(『エヴァ』の肩のデザインがどことなく庵野秀明本人の体型を思わせるところも含めて)。とはいえロボットものとしての系譜を挙げるならば、『風の谷のナウシカ』の巨神兵であったり、『聖戦士ダンバイン』や『強殖装甲ガイバー』(原作マンガ:1985~)などにみられる有機的デザインの流れにあると言えるかもしれません。
『勇者』シリーズ(1990~1998)など重要作の考察が足りていないきらいがありますが(シリーズ作品を十分に視聴できていないため、詳しい考察は他日を期したいと考えています)、ざっと前世紀のロボットアニメを概観してみました。1995年の『エヴァ』の影響は、おおむね『コードギアス 反逆のルルーシュ』(第1期:2006~2007、第2期:『コードギアス 反逆のルルーシュR2』2008)の少し前ぐらいまで続いていたように思われるので、今世紀のロボットアニメを考えることの一部分は、「ポストエヴァ期」の考察になるでしょう。しかし私の感触では、ロボットアニメが今なお盛んに制作され続けていることを考えるためには、アニメだけを追うのは不十分であって、ロボットというガジェットをダイレクトに扱うゲームやプラモデルなどについても同時に考える必要があるのだと思います。そうした問題意識についても、『視覚文化「超」講義』では触れていますが(205~213ページを参照)、概略的だったこともあるので、異なる機会に改めて、プラモデルやゲームCGなどの観点から「ロボットアニメ」の射程を見極めてみたいと思います。

ロボットの魅力のみでは語れない逆説的状況

 繰り返しになりますが、今世紀のアニメファンにとってロボットアニメの存在感はかなり低下しています。それでは、かつてアニメを代表するジャンルとされ、今でも精力的に作られ続けているロボットアニメの魅力とはなんだったのでしょうか? 「カッコイイ」「全能感を満たせる」等、個別の説明はそれぞれ重要ですが、興味深い事実として、今なおロボットアニメについては、大張正己をはじめとした職人アニメーターの匠の技を賞賛する文化が生きていることが挙げられます。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』でも、メカ作画が重要になる要所要所で、1980年代から活躍している大張正己が参加していたことは有名です。彼は『スパロボ』でもしばしばメカ作画を担当していますが、前節で『スパロボ』プレイヤーの固定化・高齢化傾向に触れたように、クリエイターも消費者も、今なお1980年代からの流れを受け継いでいるところは否めません。
 さて、前節では1980年代前半のロボットアニメの多くがポストガンダムとしての性格をもち、1990年代後半~2000年代前半はポストエヴァとしてまとめられると指摘しました。ではそれ以降現在に至るロボットアニメはどうでしょうか? 「ポストガンダム」「ポストエヴァ」というまとめが、個々のタイトルに愛着を持つ人の強い反発を起こすことは承知の上で(たとえば私自身は『イデオン』を「ポストガンダム」と呼ぶことについては、違和感もありますが、便宜的な大枠ではそう呼んでもいいという感覚を持っています)、2000年代後半~2010年代のロボットアニメをあえてまとめるならば、「ポストギアス」と呼べるのではないかと考えています。
 2017年から『コードギアス』のリブート企画が動き、2019年には映画『コードギアス 復活のルルーシュ』が公開されました。今後もシリーズが続くことも十分考えられ、このことは、逆説的にここ10年の新規オリジナルタイトルの中で最も存在感があった事実を示しています。
 改めて、「今世紀のロボットアニメ」を考えると、『ガンダム』や『マクロス』など定番タイトルを除けば、今世紀初頭は「ポストエヴァ系のタイトル」、そして2006~2008年の『コードギアス 反逆のルルーシュ』、その後の「ポストギアスの模索」とまとめられるように思います。もちろんいくつかランダムに挙げるだけでも『交響詩篇エウレカセブン』(2005~2006)、『ゼーガペイン』(2006)、『天元突破グレンラガン』(2007)、『銀河機攻隊 マジェスティックプリンス』(2013)等々、一定のファンを得たタイトルがあるのですが、ロボットアニメファンプロパーを超えた影響力という点ではやはり、『コードギアス』の存在感が際立っています。
 ただ、同時に触れなければならないのが、『エヴァ』の時点ですでに、多くの視聴者の関心がロボットにはなかったという事実です。1990年代に典型的なサイコドラマとしての側面が、『エヴァ』が爆発的ヒットとなった理由としては重要でしょう。『コードギアス』に関しても、ロボットである「ナイトメアフレーム」の存在感としては、メインキャラクターのひとり枢木スザクが操る「ランスロット」の発進ポーズが最も有名で、他の印象はそこまで大きくないのではないでしょうか。個人的には紅月カレンが乗り込む「紅蓮弐式」なども興味深いのですが、もっぱら『DEATH NOTE』の夜神月を彷彿とさせる主人公ルルーシュをはじめとするキャラ、そしてルルーシュが床を崩したりギアスで他人に命じたりする描写の印象のほうが顕著です。しかしもちろん、『コードギアス』は突然変異的に出てきたわけではなく、ロボットアニメとしての系譜も見逃すわけにはいきません。
 実際のところ、『コードギアス』には、野心的ながらも一般にはアピールしなかった高橋良輔監督の『ガサラキ』(1998~1999)のリベンジとしての性質をみることができます。『ガサラキ』は途中で反米クーデターのモチーフが肥大化してしまった感があるのですが、同作で副監督を務めた谷口悟朗が、『コードギアス』では諸勢力の政治的利害関係をひたすらシャッフルした結果、たとえば日本にとっての敵国をアメリカではなく架空の「ブリタニア帝国」とすることで、政治的読解という点では右派も左派も「等しく逆なでする」ことに成功しました。
 けれども一般的にみるならば、ロボットアニメの人気作をロボットの魅力のみから語ることが困難であるという、一見逆説的な状況が当たり前となって久しいといえるでしょう。
 ここでいったん、『ガンダム』がもたらしたロボットへの関心がどのような展開を辿ったのかについて、様々な「男児向けホビー」の観点から見ていきたいと思います。ホビーを性差で規定することについては議論の余地がありますが、次章で「女児向けアニメ」の射程について述べるつもりなので、そこと同様の便宜的な区分と考えていただけると幸いです。私自身は男女に明確に向けられたコンテンツをできる限り「両方」触れるようにしていますが、過去に遡れば遡るほど、アニメにおける性差の規定が大きなものであったことを思い知らされます(かつてはアニソンの歌詞に「男の子だから」「女の子だから」がしばしばみられたものでした)。
 以下、「ロボットアニメ」に関して前世紀から今世紀に至る流れを簡単に見てきたのと同じ時代を、主としてプラモデルとゲームに即して辿っていきたいと思います。

(後編へ続く)

▼プロフィール
石岡良治(いしおか・よしはる)
1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。
東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。
早稲田大学文学学術院(文化構想学部)准教授。
著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)
『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社)
『現代アニメ「超」講義』(PLANETS/第二次惑星開発委員会)など。
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