薔薇とか檸檬とか
アメスピは太くて、吸うには少し力がいる。煙がゆっくりと立ち上るたびに、誰かの思い出が夜風に溶け込み、光の河を渡っていく。ビーズがこぼれたような街の光を見下ろしながら、ぼんやりとタバコの先端に灯る赤い火に目を細める。何かが静かに、けれど確実に消えていく音を、心の奥で聞いている気がした。
感謝しなければならない人がいる。その気持ちは確かに胸の中にあるのに、伝える勇気がどうしても湧かない自分に、苛立ちを覚えることがある。けれど、伝えたい。感謝という言葉が薔薇や檸檬のように複雑で難解な字であったとしても、私はその気持ちをどうにか書き上げるのだと思う。
あの頃、彼女のイメージカラーはオレンジだった。少し色の抜けた茶髪と、柔らかな雰囲気が重なって見えた。そんな彼女に学生時代、見初められたことは数少ない自慢できる出来事の一つだ。7畳ユニットバス家賃2.5万円の激安アパートに住んでいた僕は、あの部屋で、冬になると水道が凍り、錆びた水が蛇口から流れ出る生活を送っていた。修理が必要なことも多かったが、彼女はそんな時も黙って助けてくれた。合鍵を持っていた彼女がバイト中に来て、僕の知らぬ間に凍りついた水道を直してくれたのだ。
「いくらかかった?」と尋ねても、彼女は「いらない」と笑うだけだった。そんな頑固さも彼女らしくて、いつしか僕は彼女に頼ることが多くなっていた。彼女の家に数日泊めてもらった時、彼女のお母様にも暖かく迎えられ、「息子ができたみたい」と笑ってくれた。僕たちはその頃、紛れもなくオレンジ色だった。
だけど、別れは突然だった。彼女は長い間、苦しんでいたのだ。それに気づかないまま過ごしていた自分に、とてつもない後悔が押し寄せた。気づけば彼女の顔からはオレンジ色すら消えてしまっていた。人が自分の元から去る時、不思議と温かな思い出が鮮やかに蘇る。けれど、その思い出たちは、これからの人生に影を落とすのではなく、きっと他人への優しさや慈悲の心として変わっていくのだろう。
タバコのフィルターが熱くなり、慌てて火を消した。僕には感謝しなければならない人がいます。薔薇しても檸檬しきれません。
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