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ぼくが思う、人と求める政  個人主義をはばむちょっと前の話

 前回、晩年の夏目漱石の講演「私の個人主義」を引用して「人そして求める政」を始めた。戦争と平和を考えることに、個人と共生を思い浮かべることが大切と思っているからだ。

 確かに、国益、侵略、ナショナリズム等、戦争と平和に欠かせない現実があるだろう。しかし、それを気にする前に、僕たちは、「人間」について捉え、それを考えた歴史が非常に浅いことを知って、僕たちの議論を注意して運んでいるのか、いささか気になるのである。

 現代の人びとは、例えばこの日本では、「人間」と見なされる人は自明であり、外国の人、障害を持った人などを人間と見ない人はいないと考えてよいだろう。また、オギャーと生まれた初めから、人種や貧富の差によって善人、悪人が決まっていると考える人はほぼいないだろう。

 では、能力はどうか。これとても、初めから人種や貧富の差によって決まっていると考える人は、極めてまれであるだろう。一人一人に多様な能力が広くあることなど、そうでなくては困るのだが、それを認めることは難しいことではない。

 しかし、それは自明の事柄ではないと考えられるのだ。例えば、古来より死ぬか生きるかの争いを振り返ってみよう。それが個人の争いではなく、集団、それも大きな集団、部族や民族や国家となったらどうだろう。同じ人間と考えるより異質の人間と捉えなければ殺し合いなど出来まい。異質の人間ならまだましだ。人ではない、と思わされていたらどうだろう。

 仲間や家族的な関係が保障されるかどうか、である。すべてそうとは言わずとも、そのように振る舞われた歴史には事欠かない。むしろ、そうした差別感を植え付けることが。何かを守るために、例えば家族や部族や民族や国家を守るという意識の元に許されてきた。

 これらの意識・感情は、社会状況が根本的に同質であれば変えにくいものがある。もっと平たく人間を迎え入れることはできないのかと言えば、そこに共生の考え方があるかどうか、が問われてくると僕は思うのである。

 そうそう人間とは何だと考えた人々がどう考えたか、これを簡単に探っておこう。西洋はやはり古いギリシアの地方だろう。人間は土から生まれたという説、あるいは四元素(火・空気もしくは風・水・土、熱・冷・湿・乾)の混合物であるという説。進化論的な説明もあって、デモクリトス(紀元前460年頃~紀元前370年頃)の原子論では、人間は原子の結合体であり、魂は動きが速い原子と見なされたようである。

 一方、全く異なる角度から論じ、理性的動物で言語を操るとか、社会的で政治的な動物なんだと見たりして、今日につながる面もあるのだが、キリスト教が支配的になれば、人間は「原罪」があるから理性だけでは自立できない。信仰と神による恩寵が必要だと信じられた。


犬山城から見た木曽川の景色

 粗っぽい素描ではあるが、いずれも今日の日本人には距離感があるのは致し方ない。そこで、最近、と言っても19世紀だが、米国のルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan, 1818年~1881年)の説を考えて欲しい。『古代社会』という著作が有名だし、今日でも高い評価を与える専門家がいるということである。だから軽率な発言は慎まなければならないが、彼が「野蛮」、「未開」、「文明」という人間の社会発展3段階説を唱えたことは良く知られている。

 僕の世代だと、あれマルクス(1818~1883)やエンゲルス(1820~1895)の唯物史観みたいだなぁと思うところだ。実際、モーガンはマルクスと同年で、亡くなったのもほぼ同じ。エンゲルスの名著と言われるものに、『家族、私有財産および国家の起源』(1844年)があるけれども、その副題は、ーリュイス・H・モルガンの研究によせてー(佐藤進訳)である。

 実際にモルガンの本を読んでいないので人づての話になるけれど、黒人やインディアンは、白人よりも遅れた劣等民族と見たが、人類の出発点は同じと考えていたという。「赤い肌」と「黒い肌」は、白人種とは別の種だという専門家もあったわけで、両者は人類の起源に関して争っていたのである。詳しくは興味のある人々の研究をお願いします。

 ことほど左様に、例えば大多数の日本人が持つ人間についての通念は、始めからあったものではないし、今でも、「全世界」には妥当しないのではないかと思う。ただ、それはそれ、為政者サイドの認識に過ぎない話であることを、忘れずに申しているのですが。

 さて、今見た「三段階」説だが、いわゆる唯物史観も含めて、これはもうそのまま信じてはいけない。そう考える人は多いのではないか。じゃ、お前の考え方を聞かせてよ、となるが、大事な問題だから日を改めて、と申し上げる。ちょっと前まで信じる人が多かった理屈だし。

 昨今の紛争や戦争、領土問題での軋轢に関わる人びとや政治家が、上の人間観から離れているどころか、内容のない人間観や人間像を持っているんではないかと、かなり寒々とした気分になるのだが、皆さんはどう思っているだろう?

 (今回は短め。戦争と平和を避けていてはならないでしょうと思っているが、人間と個人主義、共生に関わらないことを言いたくないので、いくつか触れておかなければと思っています。社会学では、個人化というか個別化というか、individualization というのが話題になるそうだが、現代の暗闇に迫るカギかなと思ったりしています。)

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