一昨年の夏 秩父にて

外は青空だ。冷房の効いた部屋の窓から木々が揺れているのを見ると、どうしても外には5月の涼しさがあるように思えてしまう。ブランケットに包まれたわたしの横にはタンクトップ姿で寝転んでいる同級生が天井をじっと見ている。彼のスマホのスピーカーから音楽が小さく流れている。彼は多分それを聴いている。わたしたちは黙っている。

窓の外で一匹の蝉が鳴いている。前に、友人と道を歩きながら話していて、蝉がうるさいねと叫んで一旦会話を中断したことがある。無言で歩きながら、そこに夏を感じたものだ。蝉の声が煩いという言葉は、ほんとうに蝉の声がうるさいのだとという直接的な意味ではなく、季語として使われていることのほうが多い気がする。蝉に鳴くことをやめてほしいとはあまり思わない。それは夏になればいつの間にかいるもので、秋に変わるとまた、スズムシなんかの別の虫に変わっていく。わたしたちは色々なものでひとつの季節が過ぎ、また次の季節がやってくるのを感じている。

頭の中でそんなことを思っている。見てるものは窓の外のまま、わたしは次に、昨日行った焼肉屋のことを思い出した。とくにそこが美味しい店だったかったどうかだとか、店が綺麗だったかとかではなく、焼肉屋に行ったなあ。という事実だけ。気づいたら彼はこちらを見ていて、寒いなら冷房を消そうかとわたしに訊ね、リモコンをひょいっと取りスイッチを切った。真夏に冷房の効いた部屋で布団にくるまっているのがいいんだけど、と頭の中で思った。声に出さないものごとは、たぶんなんでもいいってことだ。


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