逃げた先は暗く小さな山小屋だった
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 砥上家④
出現した先は、真っ暗闇だった。
「痛て」
どすんという音がして、砥上の悲鳴が上がった。
「母さん」
妻の声が聞こえないことに不安を覚えた砥上の父親が空中に手を伸ばした。いきなり体を襲った落下感に言葉を失ったものの、その体はすぐに誰かの腕で支えられ止まった。とはいえ足が地についていない。ここはどこだろうか。
「大丈夫すよ」
不安に駆られる砥上の父親のすぐ側で、突然現れ自分達を攫った青年の声がする。背は確かに息子より高いが、ひょろりとしたあの青年のどこに、片腕一本でお世辞にもスマートとはいえない自分を支えるだけの力があるのか。
「降ろしますんで。ゆっくり、足をついてください」
言われた通り、足先に硬いものが触れるのを合図にゆっくりと体重をかけて体を支えた。
「電気は」
砥上は暗がりの中で目を凝らした。いかに夜目が効くようになったからといって、予告もなしに明るい場所から暗い場所に連れてこられればさすがに戸惑う。
「いま着ける」「私が」
ポケットに入れていたスマートフォンを取り出そうとした父親の手が激しく叩かれた。
「秋山君」
厳しい殴打の音に砥上が反応する。
「悪りぃ。でもスマホはダメだ」
いつにない毅然とした声がして、暗闇が仄かに明るくなった。角に置かれたテーブルの上にあった、アウトドア用のキャンドルランタンを見つけて火を灯したのだ。合計3個のランタンに火が入り、秋山が掲げてみせたおかげでようやく家族の顔が見えた。小さな灯りで部屋の隅は見えないが、十分だ。
秋山に叩かれた場所に手を当てて呆然としている父親と、やはり呆然とした表情で自分の横にいる母親。
2人の無事な姿に砥上は安堵した。
「奴らに見つかる?」
秋山は転がった父親のスマートフォンを手に取り、簡単に二つに折った。
「そう考えた方がいい。お前は?」
ランタンの光がメガネのレンズに反射して瞳の色が見えない。彼はいまどんな状態なのだろうか。魔力は戻ったのか。
「俺は」答えながら砥上はデニムパンツのポケット周りに触れて何も持っていないことを思い出す。「部屋に置いてきた」
「わ、私はあるわ」
急いでポケットから取り出したそれを「すんません」と言って母親の手から取り上げると、秋山はやはり紙のように破壊する。そして砥上の首元を指でさす。彼の付けているペンダントも渡せというのだ。
「念のためな」
そう言って指先で破壊した。錐歌がUSBを差し込みプログラムを書き換えたところを見れば、ペンダントが魔法使いの杖のような有機的なアイテムではなく、工学的な産物だとわかる。カーナビに対応するのならGPSに相応する機能があり、そこからの位置情報を追って敵が来ると考えているのだろう。
相変わらず用心深い。
これが魔界人の身体能力か。
息子の友人らしい青年の姿を横で見て、父親は静かに身震いした。スマートフォンは強化ガラスでコーティングされ、カバーもつけていた。それらがなくても人間が簡単に折れたり引きちぎれるものではない。彼らはいつからお互いを知っていたのだろうか。魔界人は人間を喰うと聞く。どさくさに紛れてついてきてしまったが、自分達もやがて彼に喰われてしまうのではないだろうか。
「で、ここはどこなの」
彼らが出現した場所は板の間だ。
中央に囲炉裏があり、周りにバックパッカーが泊まるホステルにあるような2段ベッドが設られている。カビ臭くて床に埃が積もり、もう長いこと使われていないようだ。
「山小屋だ。いまはもう使われてないな」
「セーフハウスじゃないの」
「偶然見つけておいただけだ。何かあった時のためにな」
まさか本当に何かあるとは思っていなかったが。と秋山は付け加える。
「甲斐ノ洲、黒岳辺りのはずだ」
「なら展望台にある山小屋だろう」
「親父詳しいね」
「昔旅をしてた時に通ったんだよ。登山目的ではなかったから、利用せずにその時はすぐに降りたんだ」
車でくれば1時間はかかる場所へと一瞬で移動したわけだ。時間的にはそれほど遠くなさそうだが、地図上で確認すればかなりの距離があることがわかる。
「随分遠くに来たのね」
寂しそうに呟く母親を砥上が心配そうな目で見た。当然不安もあるだろう。突然現れた魔界の青年に拉致されたも同然の状況なのだ。
「それで君はいったい誰で逍遙とはどういう関係なんだ」
父親が母親の不安を代弁した。
「それに『奴ら』とは誰を指すんだ」
砥上と秋山はランタンの灯りの中で顔を見合わせ、砥上の両親の方をみた。
「俺の名前は秋山守人です。逍遙とは同じ会社で、お察しの通り魔界の人間ですが4分の1です」
「4分の1?」
母親が鸚鵡返しに訊ねる。
「4分の1です。母が人間と吸血鬼のミックスでした。父は日本帝国の人間で奥州……東北に父方の祖父母がいます。俺は、彼の相談を聞いていました」
今度は母親の視線が砥上に向けられた。相談とはつまり、家の息子の部屋で見たあの姿についてだろうか。蹲っていた体を覆う羽毛が、体を振るうと同時に抜け落ち空気に溶けるように消えていった様を思い出す。
とても人ではない姿をした息子を目にし、驚きよりも先に込み上げてきたのは何故か悲しさだった。
「相談とはつまり、鳥になることか」
ああ、これはリビングの繰り返しになるのか。
部屋で人間の姿に戻る場面を見た母親の顔が忘れられない。
「そうだよ。だって普通じゃないでしょ。ふたりは鳥にはならないだろ」
あの父親の言動が、ショックを受けないで飛び出たなんていわせない。
「だから違うんだ逍遙。普通じゃないのは私……父さんの方なんだ」
困惑する息子とその友人に、もう一度繰り返した。
「お前が鳥になるのも逃げ続けてきたのも、父さんの一族のせいなんだ」
告白にも似たその言葉をすぐさまより深く聞き返そうとするものはいなかった。その静寂は戸惑いであり混乱から心を取り戻す時間であり、受け入れるべき現実だった。
「ねえ」
やがて砥上の母親が声を出した。七分袖のTシャツから出る二の腕を摩っている。
「寒くない?」
息子の顔とその横に立つ息子の友人、そして夫の顔を順ぐりに同意を求めるように見る。
「そうですね。一度火を焚きましょう。軽装ハイキング者向けに衣類も置いてあるかもしれません」
すぐに反応したのは秋山だ。
この辺りの標高は1,500mにもなる。これから夜が更けるとまだ冷え込むだろう。
追手が来るまでの時間は見当もつかないが、少しでも状況の整理をした方がいい。
ぐるりと頭を巡らして小屋の中を眺めた後、ランプを手にしたまま動き出した秋山の後を砥上が追った。
「俺も手伝うよ」
〈納戸〉と書かれた札のあるドアの奥へと歩きかける。
「いや、お前は」
「お袋さんの所に居てやれ」と言いかけたところで後ろを見ると、さらに砥上の両親もいた。
「みんなでやった方が早い。薪があったら先に頼む。火を付けよう」
砥上の父親に頷いて納戸のドアを開けた。
甲斐黒岳があるのは駿河洲と甲斐ノ洲の間にある中海・河口水瀬にある笛吹大島だ。かつては駿河洲から甲駿大橋でつながっていたが、現在は大橋からの道はない。
まだ国中で道路網が十分に整備されていない時代は、こうした水瀬にある島へは船で入った。人のいない島の山は登山客に人気で、洲の登山と同じように登山の足がかりとなる山小屋が必ずあった。やがて橋が出来て車で入れるようになると、登山客の多くは山に泊まらず通いで楽しむ日帰りになり、それとともに山小屋に常駐する管理人もいなくなった。管理人の不在となった小屋はその後、急な天候不良などで動けなくなったハイキング客用にといつでも利用できるように鍵は掛けられず、防寒着や寝袋などが常備されるようになった。おそらくこの小屋もそういった経緯の末にハイキング用の避難小屋となっているのだろう。だが埃の積もり具合から見たところ、随分と使われていないようだ。
薪の束は納戸を開けたすぐ入り口にあった。2つほど父親に渡す。同じ場所に積み上げられている衣装ケースには寝袋の他に衣類、履き古されてはいるが靴も数組かあった。使われていないとしても、かつての名残があることに感謝した。
「食べ物はないね」
埃だらけのジャケットや靴が入った衣装ケースを両親に渡したあと、さらに漁ってみたが食料品の類は無かった。
納戸を閉める頃には両親はジャケットと靴を着込み息子にも手渡そうとしたが、砥上は靴だけもらっておいた。
「腹減ったのか」
「俺は我慢できるけど」と砥上は両親に目をやる。一家が居たのは夕飯時のリビングで、飯も食わない急な出発だったのだ。
「今夜は無理だな。前に上を通った時にも夜だったが、家らしい明かりはなかったぜ」
予想はしていたが、納戸には衣類と薪以外何もなかった。人のいない場所に食べ物を置いても野生動物に荒らされるのがオチだ。
「そんなはずはない。昔は有名な登山ルートだったんだぞ。大洲側には集落があったはずだ」
薪を細く割き、囲炉裏に三角形に組んだ父親が手を止めた。
「親父が歩いたのはいつだよ」
「34、5年前かな」
「結婚前かよ」
男衆が作業をしている間に母親は小屋の隅で見つけた箒を使って床を掃き、衣裳ケースに入っていた寝袋をラグ代わりに引いた。砥上がその上に胡座をかき、秋山は父親の傍にしゃがみ込んだ。どうやら新聞紙が湿っていたらしく火の点きが悪いらしい。
秋山は鉈で父親が割いた薪を手に取りさらに細く割くと、軍手やロープと一緒に入っていたナイフを使って器用に削り始めた。ナイフで削り始めた薪の先端に、やがて羽のような薄い木の膜が幾重も重なった。キャンプの焚き付けで使うフェザリングという技法だ。
「上手いね」
予想外の手際の良さに思わず父親が唸った。
虫食いのようにマッチで焦げた新聞紙の上に置いて抑える。
「ボーイスカウトで」
これまた衣装ケースから見つけたライターの火を近づけると、簡単に火がついた。
「魔法でつけるかと思った。魔界にもボーイスカウトがあるんだ」
先ほどのランタンの時は、最初のひとつに魔法で火を着けていた。
「魔法は得意じゃねぇっつったろ。そん時はもうイングランドに住んでたんだよ」
答えて、話を続けた
「でも山歩きなんて、いい趣味ですね。いまでも登るんですか」
何事もなかったのように、軸を父親に返す。
「そんな趣味じゃないよ」
少し笑みを含んだ声音で答えた「探していたんだ。隠れられる場所を」
「自分探しってやつ?」
「違うよ」息子の言葉にまた小さく笑い、「私の一族は逃げ続けてきた一族だった。だからきっとどこかに、逃げなくてもいい場所があるに違いないと探していたんだ」
「確か出てくる時もいってたね、家が普通じゃないとか……さっきも。それに、逃げ続けてきたってどういうこと」
徐々に大きくなってきた火の熱で、薪がパチンと小さな音を立てた。
「砥上というのは母さんの、妻の実家の姓なんだ」
火の向こうの息子とその友人を前にして、父親は語り始めた。
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