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反抗の旗印

酷暑の日々が続いている。わが家は二階にしかエアコンがないので、階下の台所などは窓を開け放っていても、昼間は34℃くらいある。明け方になっても30℃を切ることはない。

そんな中で毎日のように昼は蕎麦やパスタを茹でていたが、さすがに今日はバカらしくなって昼メシの準備をするのはやめてしまった。昼メシを作るために熱中症になったら、洒落にならないではないか。

数年前までは歩いて5分のところにスーパーやコンビニがあって、いろいろと調達できたのであるが、もはやそれらも消滅してしまった。いわゆるプチ商店街の衰退、である。

そこからさらに歩かないと今は買い物もできやしない。この不便さは貧しさにも通じる。車や自転車に乗らないと買い物にも不自由するのだ。

業を煮やしてきょうは玄関に置いてあるケルビムのランドナーのタイヤに空気を入れた。暑苦しいがヘルメットを被り、5分ほど自転車を走らせて、隣町のコンビニに行った。

そうして、アイスモナカとおにぎり弁当を買い、少し遠回りの道で帰ってきた。こんちくしょうと思ってペダルを漕いだ。

そうしたら少しスッキリした。わずかながらも運動したからではない。いや、実際にはそうなのかもしれないが、熱風の中自転車を走らせて、脳が別の感じで興奮した感じになったのだ。

私にとっては、自転車はスポーツギアでも健康器具でもなかった。このくそいまいましいモータリゼーションの進展による手近な商店街の消滅に対して、自転車で対抗したような気分になったのだ。

つまり、私にとっては、自転車というものは反抗の旗印であったことに、猛暑の真昼の中で気づいたということなのだ。

高校生の頃は家から逃げ出すための乗り物でもあったし、独身の頃は一人暮らしの孤独から逃走するためのそれであった。そうして今ではそれが、近代という時代がもたらした様々な状況からの離脱みたいなニュアンスを帯びているのだ。行ってみれば、自転車は私にとって「反近代」のヴィークルなのだ。

そういう思いが根底にあったがために、私の関わった自転車観光事業はあまり成功しなかったのかもしれない。今日び、そういう志向は流行らないのである。下手をすると「左派」とか言われかねないだろう。

そういうわけで、もはや自転車観光事業のクライアントからお声がけをいただくことはなくなってしまった。自業自得と言えばその通りである。自転車は私にとって「反旗」であって、「経済」ではなかったから。

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