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人は自分と似たものが好きなのか

インタビューなどを見ていて気付かされることがある。例えばサッカー選手なら、「サッカーを楽しむ人がもっと増えてほしい」と言うし、移住生活をしている人なら、「もっと多くの人が都会から田舎に移り住んでほしい」と言い、自転車愛好者なら「サイクリストがもっと増えるようになってほしい」と言う。

判で押したようにそういう言い方がされる。これがなぜなのか、私にはよく分からない。自分がやってきたことへの自己肯定感もあるだろうし、まあそれはいいことなんだろうし、同じものやことを愛する人は大切な仲間のように思えるということが背景にあるのかもしれない。しかし、私にはなぜそうなるのかよく分からない。

確かに自転車の旅の本などを書いていた頃には、私にもそういう思いがゼロではなかった。自転車で旅をする人がもう少し増えれば、世の中はもしかしたら少し住みやすくなるのではないだろうかと暢気に考えていたこともあったのだ。今は、そんなことはない。自転車ブームと呼ばれていた時期にも、自転車で旅をする人はたいして増えることはなかったし、総体的に自転車のレクリエーションが以前よりは理解されるようになったとはいえ、輪行などの制度的抑圧はむしろ過去のほうが少なかったのではと思うくらいなのだ。
今では「自転車の旅はやりたい人がやれば良い」ぐらいにしか思えない。

世の中にはいろんな立場があり、いろんな立場からの発言もあるから、世界をより住みやすい場所にするためには、それぞれの立場の人が増えていったほうがいいように見えるのであろうか。スポーツ選手はスポーツが世界を良くすると思うだろうし、政治家は政治しか世の中を変えることはできないと思うだろうし、宗教者もまあ似たようなものだろう。

ただ私がこの齢になってもまだ文学とか呼ばれるものを捨てきれないのは、それが世直しの役に立つなどと思っているからではないのであった。文学なぞ、ほとんど実用の役には立たないのだ。文学をやるヤツが増えたからといって、この腐敗した世界がまともになるとは到底思えないのである。それでも文学が面白いのは、文学がそれ自体面白いからなのである。ほかに理由らしい理由がないのだ。文学にはまやかしや取り繕いが不要だからだ。

だが、文学が面白いと思うやつが、世の中に今日びのキャンプブームのように雨後の筍のように増えることはないし、そんなこと期待もしていない。よくよく考えたら、ランドナーというのは文学のようなものでもあった。

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