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Something Sonic(掌編小説)

 篠原一曹は海面下約150フィートで音の壁を見た。聴覚のなかに実際には見えない形象が浮かぶ。オーロラに似ている。空なるところに、境目ができている。そこで海水中を伝わっている音響の一部が反射して、パッシブソナーが拾う信号になる。信号は信号に過ぎないはずだが、彼にはそれが画像のように見える。
 船殻の数海里先に、長城のように屹立した壁面があり、その上部は砲撃で破壊されたかのような荒々しいかたちになっている。海面は、波浪警報状態のはずだ。しかし海面下の壁の大半は、波の影響を受けずに、それ自体のエネルギーでいくつもの凹凸を形づくっている。
 そして壁は、ほぼ南北に、数十海里にわたって伸びているのだ。
 温帯とはいえ、真夜中の真冬の海にそうした液体の構造物があることを地上の、いや、水上の誰も知らない。壁は変温域ないし遷温域であって、水温の異なる海水の境界線であり、そこで音響反射が不規則、不連続的になる。
 それが壁のように見える、という自分の感覚がいささか特殊であることを篠原一曹は知っていた。ソナーマンには音響を視覚的に表現する人間が少なからずいるが、データの完全な裏づけがなくてもそのように見える人間は、むしろ例外的だった。技術系専門職というタイプのソナー屋は、兵士というよりエンジニアに近く、そして彼らは一般的には想像力というものにプラスの評価を与えることはあまりない。数週間にわたる哨戒のあいだ、ずっと鋼の船殻の中で昼も夜も過ごす彼らには、刺激に対して感覚の反応が鈍いほうがある意味仕事は楽でもあったからだが、艦全体が視覚を持たない潜水艦にあっては、ソナーマンの仕事は聴覚の視覚化でもあるはずだった。ただしそれには、つねにデータの裏打ちが求められていた。
 そういうわけで、篠原一曹は詩人であるわけにはいかなかった。ホメロスやコンラッドやヘミングウェイのように海水を讃えることはできなかったのだが、しかし脳裏に何を浮かばせるかは彼の自由でもあった。
 潜水艦当直は、二十四時間を、四時間、四時間、四時間、三時間、三時間、三時間、三時間の七直で割り、それを三つのグループが順繰りに担当することで、当直時間は固定化せずにずれてゆく。
 篠原一曹の班は、年末の今日、第五直であり、二十三時から二時までの担当だった。彼は、故郷の地方都市の、その日の時間帯のことを思い出していた。
 大晦日の二十四時には、港に停泊している大型船で補機が動いているフネの多くが、汽笛を鳴らす。それが、リアス式海岸の港をV時で挟み込むように後背地となっている更新世の地質の山塊のあいだで、こだまする。
 全長が二百メートルを超える船の汽笛は、七〇ヘルツ以上二〇〇ヘルツ以下、音圧一四三デシベル以上と定められているが、実際にはより低周波の成分も出ていて、可聴域の下限とされる二〇ヘルツ以下の音も鳴っているのだった。ただし、それに気付く耳は限られる。篠原一曹の耳も、そういう類の耳だった。

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 故郷の街の大晦日の汽笛を、彼は、一人で聴いたり、誰かと聴いたり、仲間と聴いたりした。もうそれも、二十年以上前のことになった。彼の妻子が彼の哨戒のあいだ彼を待っている家は、郷里から数百キロ離れた街の集合住宅の中にあった。
 大晦日の汽笛はいつも、あらゆる汽笛がそうであるように、後にするものへの哀惜と、近付いてくるものへの憧憬に満ちていた。そのような汽笛が聞こえないところで育ったなら、船乗りにはならなかったかもしれなかった。
 もし自分が音楽に恵まれた環境に生まれたなら、楽器をやることがあっただろうか、と篠原一曹は考えたこともある。しかし、潜水艦勤務が長くなった今では、やらなくて良かったとも思う。聴音の性能が著しく上がった現在では、通常の哨戒体制にあっても、Uボートの時代のように艦内で楽器をやることは、ほとんど不可能になっている。水面下では、水上のように衛星の監視も届かず、実際には常時臨戦態勢であり、仮想敵国の潜水艦との至近での遭遇は、相当に微妙な状態と言えた。

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 二三時五五分を回ったとき、篠原一曹は自分の三LDKにいる妻と娘がまだ起きているだろうか、と考えた。それも、壁の向こうのことではあった。途方もなく厚い海水の先に自分の家族がいて、いまそこに通じるのは、想像力という糸だけだ。
 二三時五八分、彼は昔、さる時計会社が一度だけ流した大晦日のCMのことを思い出していた。試合を前にしたアメフトの選手が跪いて神に祈るのだ。私にチャンスを与えてください、私に使える時間に私は自分のベストを捧げます。

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 二三時五九分も彼はコンデンサー式ヘッドフォンを耳に当て、ディスプレイが表示する音響データを見続けていた。
 壁はそこにあった。壁はそこで、周辺のさまざまな海域で発せられた音を反響させていた。漁船のまき網の音、大型船のスクリュー音、何かが海洋投棄されたような音、エトセトラ、エトセトラ。
 二四時〇〇分。
 自分の唇が無音で動いた。マタ、トシヲヒトツ、トッタカ。
 直後、彼は壁のほぼ正面から、壁を破るように進入してくる物体の過流を感知した。反射的に左手がヘッドフォンに吸い付いた。敵潜?
 ディスプレイの音紋がほとんど描けなかったそのシルエットを、十数秒後に篠原一曹は把握して、溜めていた息をようやく吐くことができた。
 鯨だった。おそらく、中型のヒゲ鯨だろう。
 向こうでも海峡に定位して哨戒しているこちらの存在に気付いたらしく、音源は向きを変え、特有の「信号」を発して右舷側に遠ざかっていった。
 はっぴい、にゅう、いやあ、と篠原一曹は口をすぼめて、ごくごく小さな、声にならない声で、呟いた。

(了)

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