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真夜中の自転車 #002/自転車文化の差異について

 オリンピックであっちゃこっちゃで自転車競技をやるとかで、自治体を巻き込んで、やれ「自転車のまちづくり」とかいうような、いろんな会議とかやってるようだが、昨日のファザコン記事でも書いたように、自転車というものは、乗ってる本人だって「なぜ自転車に乗るのか」について、あまり意識的でない場合が多いわけであるから、ましてや一生の道楽や情熱の対象として自転車に乗っているのではない人に、そもそも、自転車に関する本質的なことを理解しろというほうが無理なのである。
 したがって、自治体の偉い方々がレジュメなどに目を通して分かったような顔をしていても、まるで分かっていないケースがけっこうあるかもしれない。後述するが、自転車で競技をやることと、旅をすることは別の範疇のことであるし、ましてや、そこに「まちづくり」というような政治的要件が介入してくると、もう何がなんだか分からなくなるほうがふつうだと思うのだが、オリンピックの予算を使う方々は優秀な人々が多いので、これをちゃんと頭の中で交通整理できているか、あるいはできているように自分を説得できているのであろう。

 道楽やスポーツとしての自転車が理解できていない、あるいは体験したことのない人々には、自転車のカルチャーにいくつか大別できる要素があり、それぞれはかなり別物だということがわかっていない。
 最近はさすがにそういう話はあまり聞かなくなったけど、1970年代などはドロップハンドルの自転車に乗っているだけで「競輪をやるのか」とよく言われたものである。東海道線平塚駅で「輪行」(りんこう/自転車を軽く分解して専用の袋などにパッキングし、鉄道などの公共交通機関に持ち込むこと)をやっていたら、「お前、競輪選手なのか。そうだな? そうなんだろう? 違う? 嘘をつけ、弱くて勝てないからしらばっくれているんだろう」と酔った人にしつこくからまれたというような話を耳にしたことがある。となりの大磯駅ならそうならなかったのかもしれないが、平塚には競輪場がある。しかし、からまれたサイクリストが輪行していた車種は、ランドナー(フランスタイプの旅行用自転車)だったのである。

 さて、以下は自説に過ぎぬので、これを世間に押し付けるつもりは毛頭ないが、自転車のカルチャーの主要なものは3種類に大別できると私は考える。
 ひとつは「①競技スポーツとしての自転車文化」である。これは分かりやすいというか、見てればほとんどの人が分かる。実際に競技をしたことのある人はごく一部に過ぎないが、ヨーロッパを中心としたグランツールなどのロードレースや、競輪などのトラック競技、トライアスロンのバイク部門などは誰でも一度くらいTVで見たことがあるはずである。
 これをどういう人々がやっているのかというと、基本、勝負スポーツなのであるから、やはり体育系の方々ということになる。
 自転車のスポーツマンは、必ずしも運動神経超優秀な万能型スポーツマンではないこともしばしばあるが、運動能力や体力は平均以上にないと競技はできないので、やはり身体能力が高いことはひとつの要件である。
 このジャンルのサイクリストは、勝つため、表彰台に上るためにやっていることが多いので、体力的、技能的に良い成績が挙げられなくなると、止めてしまうこともある。特にトライアスロンのバイクなどは、もともと自転車好きで始めたというようなわけではない人が多いため、競技を止めると自転車にも興味がなくなる。そういうわけで、大型不燃ゴミの集積場には、しばしばトライアスロン用の自転車が捨てられていたりする。

 二つ目は、「②通勤手段(都市交通)としての自転車文化」である。これは①ほどではないにせよ、比較的分かりやすい。なぜなら、道楽自転車や自転車文化に興味がない人でも、自転車で通勤すること自体は見れば理解できるし、買い物などの自転車の日常使用はほとんどの人が体験したことがあるからだ。
 このジャンルの自転車カルチャーが2000年頃から脚光を浴びるようになったのは、有名な疋田智氏が「自転車ツーキニスト」という概念を打ち出し、東京のような過密都市で満員電車よりもはるかに快適な通勤交通手段としてスポーツサイクルでの通勤を提唱するようになったからである。
 さてそれで、この「通勤」ジャンルを支えているサイクリストはどういう方々かと言うと、私が見る限りでは、プラグマティックな改良主義者が多いように思える。大都市の過大な交通量の中で、自転車にひとつの突破口を見出すというのはかなりユニークなことだが、実際にそれを続けていく上では、都市交通のインフラにかなりの問題が浮き彫りにされ、より安全に自転車運航を続けてゆくためには、やはり何か言わねばならぬ。そしてまた、それに自転車文化の存在理由を求める場合が少なくない。
 だから、「通勤=都市交通」の改良を目指すサイクリストは、少なからず、政治的でもある。現実を改良するために、批判精神が必要とされるのであり、それがまたこの自転車カルチャーの骨格を成している。

 三つ目はいちばん分かりにくい。「③旅としての自転車文化」である。なぜ分かりにくいのかは、しかし簡単である。
 自転車の旅の面白さは、やったことがないと分からないからである。競技としての自転車は見ていれば分かるし、通勤(都市交通/生活圏内日常使用)としての自転車も、ほとんどの人が体験したことがある。が、自転車で一泊以上の旅をしたことのある人間はほんの一握りである。
 今日び、ロードバイクで休日に走る人は飛躍的に増えた。数十万円するような自転車に乗る人も少なくない。
 だが、その中で、輪行の経験や、荷物を自分で持って(自転車で携行するという意味)泊まりの自転車旅をしたことのある人はごく一部に過ぎない。旅っぽく見えるイベントはあちこちで開催されているが、これは啓蒙的な自転車普及事業の一種か、自転車による団体旅行なのであって、個人が自分の意思と責任と計画において行う「旅」とはニュアンスを異にする。
 「旅」として自転車に乗る人は、勝つために乗るスポーツマンや、都市の交通政策を実践的に実行、探求し、またしばしば団結するプラグマティストとは異なり、その動機は当人にもやや不鮮明であることが多い。もちろん、未知の土地や景観、地域文化などに関心があって旅をするのだが、自転車スポーツにおける「勝利」や、自転車による政治参加の「改革」のような明確な 着地点があるわけではない。
 「旅」をするのはどういう人なのか。自転車スポーツは自転車スポーツマンのものだし、自転車政治は自転車リアリストもしくは自転車プラグマティストのものである。「旅」をする人は、明確な輪郭や押しの強さにおいて、そのどちらにも及ばないことが多いだろう。「旅」にはそもそも、この3次元世界という浮世を超えようという力が内在しているために、3次元世界の中では説明しがたいことを含まざるを得ない。
 ま、それはともかく、私の経験上では、「旅」のサイクリストは、「Art」志向であることが多い。「Art」には2種類の意味があり、「芸術」と「技術」である。つまり、アーチストか、あるいはエンジニア(技術者)であり、文系と理系のそれぞれ重要な一部を代表している。芸術や科学的真理、あるいは技術的真理というものは、浮世を超えているのである。
「ランドナーに乗る奴はめんどくさい」には、かような理由があるのである。ま、私などが典型的である。

 ①から③まで自転車文化を概説してみたが、「自転車のまちづくり」とかを標榜する地域の考え方は、どうもこの三つがごっちゃになっており、それぞれそれらをサポートする人口のタイプが違うということが理解されていないようなふしが多々ある。
 「自転車のまちづくり」にも、いろいろあるのであろう。自転車に快適な交通インフラなのか、自転車ツーリストの来訪を期待して経済的効果を得たいのか、住民の健康増進を自転車によって図りたいのか、それはいろいろあるのであろうけれども、色をたくさん使いすぎた写真がかえってイメージが不鮮明になるのと同様で、いったい何がやりたいのかを明確にするのは、方向性が多ければ多いほど訳がわからなくなると思われる。
 もっとも、実際には予算を使うとともに、それに見合う経済的効果を得ることだけが目的である場合が少なくないから、それはそれで明瞭と言える。ただそこに「自転車」という冠がつくと、何か新しく、否定しづらいことをやっているように見えることも確かなのである。

 自転車に関することは、そのように、自転車を分かっていない人たちが「自分は分かっている」と思い込んでいるケースが多いために、事情が面倒くさくなる。そういう施策を推し進めようとしている行政や団体だけでなく、それを報道する側も分かっていない場合が多い。しかし、分かったように解説した文章が、堂々と新聞の紙面に躍ったりする。これからますますそういう記事が増えるかもしれない。

(このシリーズの続編は真夜中の自転車 #003 です)

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