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子ども道と抜け道

子どもにだけ許された道というのが昔はたくさんあった。家の敷地と敷地を裏庭でつなぐような抜け道、野生なら「けもの道」と呼ぶような道が、そこいらにあったのだ。

子どもには理性や公徳心はほとんどないから、本能に従って通りたいところを通る。そこが人様の庭の一部であっても、子どもは気にしないし、昔の大人はたいがいそれを許した。

子どもや犬や猫だけが徘徊できる「抜け道」「裏道」があちこちにあったのである。

以前にも書いたことがあるが、いわゆる「ニュータウン」のような新興住宅地にはそういう類の道はない。表通りに面したところ以外は厳密にフェンスやブロックで区切られており、「不法侵入」を許していない。

「抜け道」や「裏道」のない地域社会は、規律や秩序を愛する大人には好ましいのかもしれないが、子どもや動物にはありがたくない。つまり「野生」はそれを好まない。

「子ども道」などという言葉があるわけではない。人里における「けもの道」がそういうことだろうと思って使っただけだ。

「子ども道」「抜け道」のない幼年時代、少年時代を私は送らなかった。好きなように近所を歩き回っていた。だから、それができなかった幼少時代がどういうものなのかわからない。

わからないが、大人が通れない、子どもだけに許された道を経験しない幼少時代というのは、けっこう苦しいのではないかと想像したりもする。

私などは、いちおうの大人になってからもそういう「抜け道探し」みたいなことを続けていて、それが結局自分のシクロツーリスムではないかと思えてならないのだ。

「道」という言葉には、「それが正しい経路だ」みたいなニュアンスがどこかにある。だから「剣道」や「柔道」みたいな、どこかに確固とした倫理観を備えたものに近しい。

しかし人間、いつも正しい「王道」を進むことができるわけではない。芸術が多様性を求めるように、人もまた「脇道」や「裏道」に接することがないと、場合によっては窒息してしまう。

人間社会の前面に張り出しているのは、たいがいにおいて「正しい道」であり、「王道」であり、物理的に言うなら「公道」である。

文学や芸術や野生は、それ以外の道を探す。われわれがやるようなシクロツーリスムも同じだろう。

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