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『ディア・ハンター』と『リバー・ランズ・スルー・イット』

『リバー・ランズ・スルー・イット』がフライ・フィッシングをひとつの象徴として、良き時代のアメリカを描いた傑作だとすれば、同じように生きものと生命をやり取りする道楽に題材を求めながらまったく逆のアメリカを描いた作がある。

『ディア・ハンター』。
1978年に公開されたこの映画は、ペンシルべニア州ピッツバーグ郊外の製鉄の街、クレアトンとベトナムを舞台としている。
映画の設定は1968年だが、撮影の行われた1970年代の後半では街はすでに煤けた雰囲気で、重厚長大産業の衰退がリアルに感じられる。

映画としてはロシアン・ルーレットの部分が有名であるものの、母国アメリカが出てくるシーンもそのように非常に印象深い。
ロバート・デ・ニーロ演ずる主人公とその仲間は工場労働者で、道楽が「鹿狩り」なのだ。仕留めた獲物を車のボンネットの上に乗っけて帰ってくるような連中である。
住んでいる家もつつましく、芝生の広がる大きな庭などとは無縁だ。昔の多摩にあったような「ハウス」とさして変わらないような平屋の家。われわれがよくあるシネマやドラマで見慣れたアメリカの住環境とはあまりに違う。

『リバー・ランズ・スルー・イット』では、主人公たちは牧師とその息子たちであり、知的な職業に従事している。兄弟の兄は大学で教える文学の専門家で、弟は地元紙の新聞記者だ。
彼らは郊外の立派な家で育った。立派な階段や立派な書斎や立派な庭がある家だ。

なんと対照的であろうか。作品を通しては、暴力という不条理が共通する部分もあるが、片方は知的で文化的、宗教的な家族であり、もう片方はブルーカラーで、いわゆる「プア・ホワイト」でもある。

同じ白人でも、毛鉤釣りをやる人種と鹿を狩る人間はそれくらい違うのだ。
メリル・ストリープはスーパーの店員役だった。
もちろん、『ディア・ハンター』の描くアメリカはラストベルトそのものである。

ラストシーンでは友の葬儀のあと、一人が「Such a gray day」(暗い日ね)という風に言い、それから仲間全員で「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌う。

対照的な二つの映画は、アプローチが異なるとはいえ、どちらも「アメリカとは何か」と問いかけている。
そういう問いが映画のテーマとして成立するのは、それが彼らにとって普遍的で切実な問いであるからだろう。

たかだか数世紀の歴史しか持たない巨大な国は、その広大さに見合う何かを、意味づけを、つねに欲しているに違いない。そのような国にとっては、分断や融合の意味は想像を絶するものであっておかしくない。


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