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「急行東海・断章」(中編小説)に関する覚書

 小説の解説をするつもりはないが、1980年代から90年代前半の鉄道事情とそれに重なる旅の感傷について少々記したく、ここに書き加えることにした。

 急行東海は1996年の3月まで運行されており、その後は特急となって車両も湘南色の165系からテイストの異なる373系に変わり、その特急も2007年で運行が終了した。東京─静岡間の在来線の直通優等列車は、夜行寝台特急のサンライズ出雲&瀬戸のような例外的なものを除いては現在は存在しないはずである。
 1996年まで運行されていたというものの、どうみても急行東海は「昭和」そのものの列車だった。リクライニングしないクロスシート、煙草臭かった内装、開閉可能な窓。いまの特急とは比べるべくもない。急行券は特急券よりずっと安かったはずだから、まあそれも無理ないといえば無理なかった。

 当時、私がこの列車に乗るときは、地下鉄東西線の大手町駅で降り、長い地下通路を通って東京駅の地下コンコースに達した。現在そこは、成田エクスプレスの発着する地下ホームのひとつ上の階となっている。
 私はそこで国鉄時代の乗車券を買い、改札を通って階上の東海道線ホームを目指した。記憶が正しければ、少なくとも私の学生時代は、つまりは1980年前後には、東海道線ホームは特急・急行用の専用ホームがあったはずである。そうしないと、夕方からけっこうな本数が出発する寝台特急(いわゆるブルートレイン)や急行東海等を捌ききれなかっただろう。

 バブル期を境にして、東海道線の沿線風景も大きく変わったはずであるが、特に首都圏寄りでそれは著しかった。車窓から見えるあらかたの風景は更新されてしまった。
 しかし、静岡に近付くにつれ、風景の更新の度合いは緩やかになり、東京から離れれば離れるほど、過去の世界に近くなるという効果を生んでいる。そのこと自体、一種の時間旅行と言えないこともない。

 列車だけでなく、駅の付帯設備等も昭和の頃からは大きく変わった。一部の駅は橋上駅舎となり、地方駅の薄暗い地下通路が消滅したりした。小田原駅も橋上となり、小田急線や新幹線との連絡通路も以前と様変わりした。ホームから駅そばが消えたり、指令所のようなところも別のところに移ったケースがあったようだ。
 昭和の駅にあった感傷的でもの哀しい雰囲気は、新しい駅舎にはまず見られない。それは良いことなのであろうが、どこか取り澄ましているようにも見える。

 東京駅を出発するときの急行東海は、車掌のアナウンスの前に鉄道唱歌のメロディを流していた。

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