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叔父の葬儀で見えたもの

土日と叔父の葬儀があって出掛けてきた。享年83歳。存命中の母の、弟にあたる人だ。

水曜日に亡くなって、当日に諸々の予定の連絡が従兄から入った。入院中の病院で早朝に逝去されたらしい。

土曜日の夕刻が通夜だった。17時30分の定刻に間に合うように車で出掛けた。

読経が始まって間もなく、脳裏に風景が浮かんだ。川があり、向こう側の岸にすでに亡くなった親族が並んで立っている。

しかし川には橋もなく、舟のようなものもない。まだ川を渡ることはできない。以前に亡くなった親族は彼岸に、亡くなったばかりの叔父は此岸にいる。

その日はそれ以上に映像の変化はなかった。小一時間もかからぬうちに通夜は終わり、私もほかの親戚衆と同様に帰途についた。

明けて日曜日の午前は、10時半から葬儀が始まる。このときも映像に大きな変化は見られなかった。

12時頃に出棺となった。霊柩車に棺を運び入れたあと、親戚衆は皆バスに乗って火葬場に向かう。バスに乗るのも久しぶりだった。

12時半を回った頃にバスは火葬場に着いた。経験上、映像はここで変化することが多い。故人とは最後の別れとなる。棺が扉の向こうへと消えた頃、脳裏に見えるものが変わった。

川に橋が架かっている。橋は人の背丈ほどの幅で、川の流れの方向に板が張られており、少しアーチ状になっているようだ。手すりや欄干はない。

叔父はそこを車椅子で渡って行った。渡り終えると、車椅子から立ち上がったようだった。そしてすでに亡くなった親族たち、兄弟などに再会した。

親族たちはいちように叔父を迎えて、喜びの笑みをたたえていた。

火葬が始まったのが12時45分頃。それからわれわれは控室に行って、昼食と相成った。食後に従兄たちと話をする中で、私は自分に見えたものを彼らに説明した。

懐かしい話もした。叔父がまだ独身で母の実家に起居していた頃の話。古い実家の家の造りがこうだったとか、私が幼い日に母の実家を訪れたときの彼らの記憶とか。

そのうちに叔母とその家族、つまりは叔父の遺族がわれわれのテーブルのところにやってきて会葬の礼をした。その話の終わりごろに、私は叔母たちに自分の脳裏に映じた情景を説明した。

「叔父さんは車椅子に乗っていたのではありませんか」と尋ねた。答えはイエスだった。そのやりとりを聴いていた従兄の誰かが、そんなことまで分かるのと驚いていた。

収骨の時間になった。さきほどの部屋にわれわれはまた集い、白くなった叔父の遺骨を骨壺に入れた。

葬儀に出るのはほぼ1年ぶりだ。そのあいだに、私はとても大切な友人を亡くしていたことを知った。この1年はそのことへの思いに心を使って過ぎていった。その人もこうやって骨になってしまったのかと考えることは辛かったが、叔父のときと同じように、その人が彼岸へと旅立つ風景も私には見えていた。

われわれは再びバスに乗り、葬祭ホールに戻り、そこではらいの仕出しの入った紙袋を頂戴してそれぞれ帰途についた。

葬儀というものは愉しいものではないが、辛いばかりのものでもない。かみさんが実家に行っている自宅に一人で帰った私は、礼服を着替えて礼装の後片付けをした。

17時を回った頃に、はらいの包みを開いて夕食にした。一人で食べた。そのあとで行きつけのカフェにフレンチ・コーヒーを飲みに出掛けた。

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