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与えることより難しいこと

スポーツ選手などはよくこういう言い方をする。「勇気を与えたい」。

なるほど、なかには実際に試合で躍動する選手らを見て、勇気や覇気をもらったという人もいるだろう。

しかし個人的にはこういう言い方には違和感がある。私はスポーツ観戦のときには、選手らのスリリングでエネルギッシュな活躍を見て楽しみたいのであって、別に私自身に勇気をもらいたいわけではない。

一般的に人間は他人に何かをあげることは好まないが、もらうことは好きだと考えられている。100万円人に贈呈する気にはなれないが、逆に100万円贈与されるのは願ってもないことだ、というように。

が、よく観察すると、例外はあるというものの、実際には、人は与えることのほうが好きなようだ。そして受け取ることは苦手である。

人間関係に即して考えると、人は自分の人格を他人に与えようとする、つまり自分の好みや性向を押し付けたりするようなことは好きだが、相手の人格を受け入れようとすることは得意ではない。受け取ることは難しいのだ。

そういうこともあって、正直なところ、私は「勇気を与えたい」というようなオファーはありがたくない。何かどこか、どうしようもない違和感と不快感があるのだ。

言い方は悪いが、人は少なからず、与えることによって人にマウントしようとするのである。「人々に元気を与えたいから、自分は今度の大会で全力を尽くす」というような考え方は、それ自体に悪意はないのであろうが、反面無邪気過ぎるとも言える。

逆に「私は何としても優勝したいので、私に力と勇気を与えてくれるように応援してください」という選手はほとんどいない。しかしそのほうが「勇気を与えたい」というよりずっと正直であり、内省があり、また謙虚である。

与えることと受け取ることの差異は、根源的なものなのであり、宗教的範疇の記述にもしばしば登場する。仏陀やキリストの描かれる物語や伝承の中で、人類にとって宝であるようなことを人々が受け取るのがいかに困難であるかが示される。

与えることにはなにかしらの喜びが不随するのであろうが、受け取ることには感謝という、より高貴な感情が必要になる。だから受け取ることは難しい。

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