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「急行東海・断章」(中編小説/その2)


 その日、君はNと一緒に実家を後にし、また駅に向かった。自分の故郷の街から離れたかった。次に来た上りの各駅停車に揃って乗った。週末の夕方近くで車内は混み始めていた。二人はほとんど口を利かず、近郊型車両のドアのそばに立っていた。泣いてはいけない、泣いたってしょうがない、そう思って唇を噛んでいた。君の眼の前にNのスーツのラペルがあって、その生地と縫い目に瞳の奥に湧き上がっているものが吸い込まれていきそうだと思った。
 傾いた西の陽射しが車内に入り込んでいた。電車が富士川を東へと渡る前のカーブにさしかかると、床に落ちた明るさが弧を描き、君のエナメルのパンプスとNのウイングチップを照らし出した。
 誰も気がつかない、足元のその小さな光景にとうとうこらえきれなくなって、君の涙がひとしずくNの靴先に落ちた。すぐに彼は気づいて、ほかの乗客から見えにくい扉ぎわにそっと君の背中を押した。そのことで余計に泣けてくるのも知らずに。

 各駅停車は三島止まりで下り線側のホームに入線した。肌色とエンジ色の特急がホームの反対側に停車していた。三島から先へ向かう人々は上り線側で待っている東京行き快速へ乗り換えるために、地下通路の階段へと流れていった。Nはホームの途中で不意に立ち止まり、君の手を握って、人々の流れを横切った。
 そのまま、特急「踊り子」の扉口の前に立った。
「ノブ、これ違うわ、修善寺行きよ」
「知ってる。いいんだ。行こう、これで」
 Nは君の旅行バッグを自分のそれに重ねて持ち、君の手首を握り、特急のデッキに君を連れて乗り込んでしまった。中ほどの自由席は埋まっていて、座れそうな指定席車両へとNは君を引っ張るようにどんどん歩いて行った。そのうちに発車のベルが鳴った。
「ここ指定席じゃないの?」
「この先、誰かこの席に来るってことはないだろ。指定券買うからいいよ」
 市街地を急カーブで抜け、三島二日町駅を過ぎたあたりから「踊り子」はようやく特急列車らしくスピードに乗り始めた。指定席だったから、すぐに車掌が検札に来た。Nは「二人とも乗車券の行き先を東京から修善寺に変更して、特急券と指定券を二枚ずつ」と説明した。「そうなりますと一部払い戻しになりますから……」と、車掌はNが差し出した乗車券を検分してから、せわしく車内発行用の乗車券と料金表を取り出して計算し始めた。二人がなぜそんな変更をしたのか、詮索する暇もないようだった。その頃はまだ、車内発行用の端末がなかったのだ。
 パンチされた新しい乗車券を渡されて清算が済んだ頃には、特急は田方平野の田んぼの緑を横切って、通過する韮山駅に近づいていた。次の伊豆長岡駅で、あらかたの客が降りた。
「狩野川だわ」
 伊豆長岡駅を出て空席の目立つ車内で君は言った。国道を挟み、西日の反射する水面の向こうに、川原の叢と土手と土手の先の屋根屋根が見えた。
「電車から見えるって知らなかった」君は言った。
「修善寺の温泉街を流れてるのもこの川かな。旅行雑誌か何かで見た覚えがある」
「あれは違うんじゃないかしら。名前が。えーと何て言うんだっけ」
 そうこう言っているあいだに、大仁を過ぎ、特急は終点の修善寺に着いた。仕舞う支度をし始めている観光案内所にNは掛け合って、頃合の宿をとってくれた。そう言えば、彼は他県を回ることの多い取材の仕事で、そういうのには慣れているんだよと前から言っていた。
 タクシーに乗ってNが宿の名を告げると、車は駅前を抜け、アーチ橋を渡った。温泉街に入る前に何本か、桜の梢が傍らを過ぎた。
「この週末で桜も終わりだねえ。お客さん、いいときにいらしたね」初老の運転手が言った。

 宿は仲居に心づけをしなくてはならないほど上等には見えなかったが、桂川の南側の静かな通りに玄関口があり、ひっそりと落ち着いた佇まいだった。贅沢なところに泊まるような気分でもなく、けれど、人目を憚るようなところもいやだった。
 Nとそういう泊まりの旅をするのがこれが初めてではなかった。これが最後になるかもしれない、と言い出すのは、彼にも君にもできなかった。ひと風呂浴びて、二十畳ほどの広間でそう悪くはない夕食をともにした。ほかにも二人連れやグループの客はいたが、満室の様子ではなかった。
 宿帳にNは君の苗字は書かなかった。若い夫婦に見えたのかどうか。いや、そうは見えなかっただろうな、と今の君は自嘲する。二十代の自分たちがしていたことは、大人たちには滑稽を通り越して微笑ましく見えたのかもしれない。でもそのときは、それ以外にやりようがなかった。
 部屋に戻ると寝具は用意されていて、Nはそれをわざと無視するかのように大げさに跨いで、窓辺の籐椅子に座り、煙草を吹かした。春の夕は暮れ、桂川の渓の音に、時おり対岸の旅館から聞えてくるざわめきがかぶさった。ほとんど黒い流れとなった川面の上に、上流から白い小さなものがいくつか下ってきては、通り過ぎた。それが散り始めた桜の花だと気づくまでにしばらくかかった。
 気がつかなかったのは、桜に今ほど感じるものがなかったからだった。桜を見るのが、桜を見ているだけで、切なくなるようになったのは、四十代も半ばを過ぎてからだった。あれは未来に向かって咲いている花ではなく、過去に向かって咲いている花だからだ。
「あのさ、家の人が心配してるかもな。連れ出したのは俺なんだけど」とNが言いにくそうに言った。
「どうせまだ電話なんかしてないわよ。ふだんだってよほど用のあるときにしかかかってこないし」
 携帯など誰も持っていない時代だった。遠距離通話の電話料金を気にすることもあった時代だったのだ。
「でももし、かけてたら、心配しているかもしれないぜ」
 君はNのその言葉に、自分でも驚くようなことを口にした。
「どこかで心中しているかもしれないって?」
 Nの視線が固まり、痛いくらい尖って、君に返ってきた。しばらく、水音だけが流れた。
「心中したいのかい」
「わかんないわ」
 君は糊のきいた浴衣の裾を自分で見つめながら、言った。何を言っても仕方がないことだけはわかっていたから、そんな風に言うしかなかった。そして今は、Nが何か喋るのも聞きたいとは思わなかった。Nに抱かれたい、というよりも、束の間ひとつになりたいというよりも、この時間も空間も消し去りたいと思って、君はNの手をとりにいった。

 押し切って、Nと一緒になってしまう、という選択ももちろんできたはずだった。そうしなかったのは、そうできなかったのは、捨てることができるほど、断ち切ることができるほど、自分の両親とつながっている何かが欠けていたからかもしれない。後になって君はそう思うことがあった。
 相手を選んで、親を捨てれば、自分にも痛みはある。ふつうの親子関係なら、そうなるはずだった。けれど君には、そういうバランスシートは成り立たなかったのだった。そもそも、血を分けたはずの親に子供の頃から違和感があって、自分はもしかしたら孤児ではなかったのかと考えた幼い日もあったくらいなのだから。
 君がNと駆け落ちに走らなかったのは、親の言い分に涙を呑んだということではなくて、それが自分の奇妙な親子関係の清算事業のひとつだったからだった。そのときはもちろんそうは思わなかった。そうしたくてそうしたのではなくて、人並みに最初の相手と一緒になりたかったのだけれど、後になって、何かまるで負債でも返すかのように、親の言い分を呑んでやっていたことに気づいたのだった。 
 修善寺に泊まった翌日、都内に戻るときに二人は小田原で小田急線に乗り換え、わざわざ二本待ってロマンスカーの指定席を取った。当時は線路の下の乗り換え通路にあったコーヒーショップで時間をつぶした。
 席はロマンスカーの最後尾だった。運転台は二階にあり、そのあたりの席だけはほかの席が進行方向に向きを変えられても、後ろを向いていた。君とNは肩を寄せ合ってそこにいた。ロマンスカーが小田原駅を離れ、緩やかなカーブで北上し始めると、次第に青い影は山塊となって遠方に退き、それが箱根の山々であったことが知れる。
 その頃には、小田原の駅の周りの建物の輪郭や、背後の高台にあった住宅地の何もかも、もう遠景に溶け入って見分けがつかなくなっているのだけれども、それよりもずっと大きな全体が見えている。視界に入っている。齢をとり、二十代の日々が遠ざかるのも、そういうのに少しは似ているところがあった。
 新松田のあたりで、すでに葉桜になっている桜を何本か見た。

「その3」につづく>

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