生後3か月の贈りもの
育休を取得し、産休で職場復帰する妻とバトンタッチした2016年1月のこと。これより少し遡る年末から約1か月に渡り、僕は、育児の「引き継ぎ」を受けていた。
引き継ぎ現場、妻の実家は、僕が住んでいる町から、車で1時間半ほどのところにある。それほど近いと言えないものの、育休取得を間近に育児参画への意欲に溢れ、毎週のように妻の実家を訪れては、妻や義母からの引き継ぎをこなしていた。
引き継ぎとは、ミルクの作り方、おむつの替え方、服の着せ替え、風呂の入れ方などなど。息子が生後3か月になっていたので、ほぼそれまでの赤ん坊を世話するノウハウを伝授されたという訳であった。それは、時折、実家に行っては手伝っていたことであったが、主体的に1人で行うとなると、容易なことでは無かった。
例えば、哺乳瓶にミルクを入れて、飲ませた後、ミルク瓶を洗い、消毒しておく、数本を洗っては乾燥させておき、使うというサイクル。赤ん坊のちょっと飲むとか、ミルクでなく実はオムツだったとかで、ミルクは無駄になる。そして、次から次へ使用済み哺乳瓶が溜まっていく。こんなことはよくある想定外。
また、とにかく出かける準備が大変であった。少しの外出でも、備えあれば憂なしと、一日分の準備をするから、してる間に赤ん坊のミルクの欲しい時間になり泣き始めて、ちょっとした散歩にも出かけられないとか。
外出先でオムツを替える場所に困ったり、使用済みのおむつを入れて持ち帰る袋を忘れてしまい焦ったり。
あれしなきゃ、これしなきゃ。仕事のように、段取りよく行かないし、毎日毎日違う。想定外が当たり前で、誰からもフォローがない。これが乳児の母親が孤独になるというやつか、、。
妻の実家で僕が手伝っていた時は、上手くやっていたと思っていた。実際には、哺乳瓶を洗って用意してくれていたのは義母であった。洗濯や、その他の家事も、妻や義母の助けがあったから成立していたのである。僕を手伝わせるための、さまざまな段取りの上で、イクメンが踊っていた。いわば、里帰りのマジックである。余裕があり、写真にあげたような裁縫に挑戦してみたりするほど。
それが、里帰りを終え家に戻り、育児をやってみると、できないことだらけであった。正直、実際にやる前は、少しなら余裕があると思っていた。僕には、1人暮らしの経験があり、結婚してからも家事もそこそこやってきたからだ。しかし、里帰りの魔法が解け、主体的に行うという壁は、頂上が見えないほどに高かった。
育休開始1ヶ月後、疲労により布団から起き上がれず、嫁の実家に駆け込むこととなった。この時、駆け込み寺、お母さんというセーフティーネットにすがる他はなかった。ありがたや。
そんな頃のことを、イクメンノートは、次のように記す。
この日から、実質的に一人で育児、ほぼ一日、育児家事以外できない。30分、1時間の少しだけの時間も、次のこと、次のこと。
夕方、息子が泣きすぎて、泣きしゃくりで、ミルクが飲めず泣く状態。連鎖してしまう。夕方の機嫌の悪い時、悪夢のような時間。
2016年1月31日 僕29歳 長男4か月 妻29歳
とこんな感じ、かなり余裕のない育児の様子が記される。
育児の他に余裕がなく何もできないとか、赤ん坊が泣きすぎて、どうしようもなくなったとか。やるせない思い。
子供を育てる責任、泣く子と対峙し1人で対処する覚悟、そして片付けを後回しにできる勇気。どれも、引き継ぎでは、身につかなかった。直面する状態への対処。一日中、赤ん坊と一緒にいて初めて、身体で覚えていく感覚というものが、この世に存在したのであった。
生後3か月の贈りものは、僕がイクメンになるための厳しい洗礼。いわば、イクメンへの通過儀礼であった。格言でまとめるなら、イクメンは一日にしてならず、という話。
後日談を述べておきたい。育休に入って1ヶ月、フルダイブでイクメン生活に没頭。やる気に溢れ育児にのめり込んだものの、赤ん坊という強敵の前にやむなく挫折を味わった僕。それから地道な経験値を稼ぎ、息子が5か月を過ぎる頃には、イクメンの熟練度は常人の域を越していた。
大げさかもしれないが、生後3から5か月、この頃の息子の様子をイクメンノートでは、次のように記す。
この頃の息子は、生後3ヶ月、顔を覚えるようになる。
泣く時、アウアウと口を動かし「アウアウ」と聞こえた時は、母乳かミルク
口を震わし、「ブー」と音をたてる(遊び)
父母のことを見て、真似ようとする
手足を思い思いに動かす、いらない時は、哺乳瓶を手ではらって避ける
ごろっと寝返りをうとうとするが、(1月の時でも)まだ成功していない。横向きで止まる。
笑う。声を出して笑う。よだれが垂れる。
ミルクを飲みながら、お腹が満足してくると手で周りのものを触る。ミルクを飲み飲み他へ注意がいく。特に母乳の時には、母の胸のあたりに手を置く。
とこんな感じ。
余裕がないと言いながら、割といろいろな赤ん坊の様子を記録していた自分。
誰でも、赤ん坊の世話をするのは大変なことで、初めてであれば、なおさら。
ただ、僕は、真面目に1人の赤ん坊と向き合おうとしていたのだと思う。
義母いわく、「息子は、分かりやすい子や」とのこと。その言葉をもう少し説明すると、やって欲しいことがよくわかるということだった。泣き方についての判断も、妻より義母の方が慣れていた。僕は、義母の分かりやすいという言葉を間に受けて、息子の様子を丁寧に観察し記録していた。
アウアウと聞こえた時は、母乳かミルクであるというのも、僕自身が気づいたこと。
実際、お腹が空いて口をパクパクと動かして泣くから、「アウアウ」と聞こえるのだけれど、この時、僕自身も、泣いている子をあやしながら、アウアウと聞こえると「よしよし、アウアウだね」と復唱するので、息子もアウアウというようになっていった(ように感じる)。
これについて、「アウアウ」がミルクという記号であり、期間限定での言語になっていたのではないかと、考えている。
通常しゃべるというと1歳を過ぎてからであるが、僕は結構真面目に「うちの子しゃべってると」思っていた。ある時知人に「4ヶ月くらいから、うちの子しゃべっていたよ」、と言ったことがあったが、割と反応は冷たかった。
それでも、事実喋っていたのである。生後5ヶ月の頃のメモには、「アウアウ」はミルク。ぐずる時は「へぶー」という。寝たい時は、「ネンネ」という。とあった。
ネンネも、泣きながら、あれでもないこれでもないと手を尽くしていた時に、赤ん坊が大きな声で「ネンネ!」と叫んだことがあった。眠らせろ、大人しく寝かせろと言ったように思えた。
今思えば、信じる力というか、わかるんだ、という思いが、一番大事かもしれない。子に意思があり、自分はその意思を理解することができると思ったとき、子の様々なサインを前向きに汲み取ろうとしていたことには、間違いはない。赤ん坊も必死、僕も必死、信頼関係。そういう意味で意思疎通だと思う。
こんだけ意思疎通ができると、寝たいのに寝れなくて泣いている時は、少し暗くして、抱っこしてあやせば良いやなんて、結構対応できていた。分かりやすい。うん、分かるようになったのだ。24時間一緒にいると、分かるようになるのだ。そして、寝かせるフローチャートなんかも作ってみたりした笑。
参考に、自分なりに研究した寝かせ方を記しておく。寝かせるための条件は3つ。
その1 足が温まっていること 足を布団や毛布で包む。冷えていると感じたら、ちょっとさすってあげて冷えていない状態にする。
その2 お腹がいっぱいになっていること。 空腹の時は、寝そうでも寝ずに、食欲を優先した。
その3 横になること。縦抱っこで、あやして、寝そうでも、横にならないと寝ない。あやして、子守歌など歌って、それから寝そうになって、布団にそっと入ってやっと寝る。
そして2月に入ると、その4でおむつが濡れていないことという条件が加わった。
縦抱っこで、あくびがでるまで、あやして、あくびが出たら横だっこ、砂浜に寄せる波のようにゆっくり、ゆら〜、ゆら〜と揺らす。この間にその1からその3の条件が揃うと寝ることがわかった。
生後3か月の手厳しい洗礼からとって代わり、生後5か月の頃は、このような「分かりやすい子育て」スキルが自然と身についてきた。子育ての自信と共に。
あの頃を思えば、どんなにか親の手を離れているだろう、と回想する。
今回の話、生後3か月の贈りもの。それはイクメンがイクメンになるべく育休を始めて、仕事とは異なる赤ん坊と対峙し、日々対処していく現実に直面し、挫折した話。それでも、向き合って、なお向き合って、そのイクメンが子供と話せるようになるという話。
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