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和本に見る能楽 小瀬甫庵『信長記』3 悪七兵衛景清とアザ丸

今回は平家の侍、悪七兵衛景清あくしちびょうえかげきよを紹介したい。
伝説では合戦後に盲目となったと謂れている。
『甫庵信長記』・『信長公記』ともに景清が所持したという太刀アザ丸を持つと両目を射られたり、眼病を患うなど祟りするので熱田大明神に納めたと云う話を載せている。

小瀬甫庵『信長記』巻第一 十八丁裏~十九丁表 三川国小豆坂合戦の事 景淸 筆者蔵

さて、では景清とは、どんな人物なのか、能で見てみよう。
能「景清」、「大仏供養」のシテ(主役)である。また、謡曲「八島(屋島)」での軍語いくさがたり、゛しころ引き”にも登場する。
景清は、怪力を持つ勇猛な侍として、゛錣引き”で描かれる。

公益社団法人 能楽協会 の曲目データベースの解説を引用させていただく。
「景清」
-平家の勇将悪七兵衛景清は、源平の戦乱後に盲目の琵琶法師となり、日向の国宮崎に侘住居している。遥々鎌倉から訪ねてきた一人娘の人丸のために、景清は昔日の勇将の面影を彷彿と示して、涙ながらに別れる。-
「大仏供養」
-平家の侍悪七兵衛景清は、東大寺大仏殿の供養において、頼朝をねらう事を企てる。母への別れを終え、大仏供養の当日景清は宮人に変装して頼朝に近づくが、警固の武士に見やぶられ、若武者一人を切り伏せ、姿を消してしまった。-

次に『謡曲 大観』の「八島」から軍語を読んでみよう。
-シテ(語)「いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海の面一町ばかりに船を浮かめ。源氏はこのみぎはにうち出で給ふ。大將軍の御出立おんにでたちには。赤地の錦の直垂ひたたれに。紫裾濃むらさきすそご御着背永おんきせながあぶみふんばり鞍笠につつ立ち上り。一院の御使。源氏の大將檢非違使けんぴいし五位の尉。源の義經よしつねと。『名乗り給ひし御骨おんこつがら。あつぱれ大將やと見えし。今のやうに。思ひ出でられて候。
ツレ『その時平家の方よりも。言葉戰ことばたたかひ事終り。兵船ひょうせん一艘漕ぎ寄せて。波打ち際に下り立って。「くがかたきを待ちかけしに
シテ「源氏の方にもつづつはもの五十騎ばかり。中にも三保みおの四郎と名乗って。眞先まつさきかけて見えし處に
ツレ『平家の方にも惡七兵衛景淸と名乗り。三保の谷を目がけ戰ひしに
シテ「かの三保の谷はその時に。太刀打ち折つて力なく。少し汀に引き退きしに
ツレ『景淸追つかけ三保の谷が
シテ「着たる兜のしころつかんで
ツレ『後ろへ引けば三保の谷も
シテ『身をのがれんと前へ引く
ツレ『互いにえいやと
シテ『引く力に
地『鉢附はちつけの板より。引きちぎって(と扇を前へ引き)。左右さうへくわつとぞ退きにけるこれをご覽じて判官(左右を見廻し)。おむまを汀にうち寄せ給へば(と床几を離れ)。佐藤繼信能登殿の矢先にかかって馬よりしもに、どうとつれば(と目附柱の方を見拍子を踏みて落馬の態を示し)。船には菊王も討たれければ(と正面を見)。ともにおはれとおぼしけるか船は沖へ陸は陣んに(と船を見送りて右へ廻り)。合引あいびきに引く汐のあとはときこえ絶えて。磯の波松風ばかりの音さみしくぞなりにける。

とても味わい深い詞章ではないだろうか。
そして勇猛果敢で怪力の持ち主であることがよく分かる。相手である源氏方の三保の谷四郎も首が強い。八島では那須の与市語りと並ぶ名場面だ。

『源平盛衰記圖會五』 錣引 筆者蔵
『源平盛衰記圖會五』景淸美尾屋闘錣 筆者蔵


『源平盛衰記圖會五』 景清美尾屋闘錣(続き) 筆者蔵

和本ではないが、『日本歴史譚』の『悪七兵衛』も紹介したい。

『日本歴史譚 第八編 悪七兵衛』大和田建樹 東京博文館 明治卅一年八月廿四日再版 筆者蔵

『日本歴史譚 悪七兵衛』では、以下のように語る。

-三保谷遂に其敵しがたきをさとり。卑怯にも走り出でしを。景淸何處いづくまでもと追うて行く。やがて追い付き。三保谷が着たりけるかぶとの錏をひつ攫み。えいやとばかり引くほどに。錏はちぎれて此方こなたに残り。主は先へと逃げのびぬ。しばらくして三保谷立ちかへり『さるにても恐ろしや汝が腕の強き事よ』といひければ。景淸は笑ひながら『汝がくびこそなほ強けれ』と戯れて双方左右に引き分かれぬ。世に『錏引』とて史上の美談とするは即ちこれなり。

この『日本歴史譚 悪七兵衛』から「大仏供養」前後の出来事(事実かどうかはさておき)のあらましを紹介する。
平氏が西海に沈んだ後、頼朝は征夷大将軍となり、奈良東大寺大仏の供養を行う。景清は西国に身を潜めて様子を窺っていたが、上京して清水観音に参籠した際に頼朝が大仏供養の式に列席するとの噂を聞きつける。
能の「大仏供養」にある通り、未遂に終わり、捕らえらてしまう。
鎌倉の土牢に籠められ、しばらくして眼病を患ったので、身を預かる八田知家が治療を勧めたが、断ってしまう。その後日向の地に送られ、盲人の勾當となった。

真偽のほどは分からないが、哀愁を帯びたヒーローとして語り継がれてきたことは間違いないだろう。

ここで、景清が清水詣のシーンが『源平盛衰記圖會』にあったので、これもご覧いただきたい。

『源平盛衰記圖會六』 景清清水詣 筆者蔵

さて、ここでさらにもう1冊お付き合いいただきたい。
景清の太刀にまつわる話が『太平記』にある。

『太平記』 巻二十三 大森彦七事 劔・景清 筆者蔵

何と壇ノ浦で腰の刀を海中に落としてしまい、それをイルカが飲み込んで海底に沈んだ後、漁師の網に引っかかったと云う。
いくら昔の人でもこんな話を信じただろうかと思わざるを得ない。

能楽好きの人には、この話の続きを読んでほしい。

『太平記』 巻二十三 大森彦七事 猿楽 筆者蔵

猿楽(江戸時代までの能楽の呼称)の興行だからと読み進めると、何やら化け物が現れる。「黒雲一村立覆へり。雲中に聲有て…」能と似たような表現だと思っていたら、次の丁へ進むと驚きに展開に。

『太平記』 巻二十三 大森彦七事 正成・後醍醐天皇・新田義貞・義経・教経他 筆者蔵

何と、まるで能「船弁慶」ではないか。
しかし、さらに驚いたことに、楠木正成と後醍醐天皇、新田義貞は「太平記」の登場人物なので理解できるが、遥か昔の敵同士源義経と平教経などが彼らと一緒に豪華キャストで現れるとはいったい如何なることか?

さて、だいぶ話が脱線してしまったので、能「船弁慶」について公益社団法人 能楽協会 の解説を紹介して今回はこの辺りでおしまいとしよう。
「舟辨慶・船弁慶」
-兄頼朝と不和になり都落ちを決意した義経は、弁慶ら一行と大物の浦へ向う。静御前との名残惜しい別離を済ませ船出すると天候が急変し、激しい荒波と共に平知盛の亡霊が現れる。しかし弁慶の懸命の祈祷により亡霊は退散する。-

次回は、「人間五十年」を取り上げたい。

■公演情報
確認できた半年以内の公演予定を記載(敬称略)
〇景清
・2023年12月3日(日)梅猶会 梅若吉之丞十三回忌追善 第三回大阪定期能楽公演
大槻能楽堂
能 経正 梅若利成
狂言 布施無経 茂山千五郎
能 景清 梅若猶義

・2023年12月9日(土)川崎市定期能~観世流梅若会~【第1部】
川崎能楽堂
狂言 佐渡狐 三宅右近
能 景清 角当行雄

・2023年12月13日(水)東京能楽囃子科協議会 定式能12月公演
国立能楽堂
舞囃子 巻絹 宝生和英
舞囃子 源氏供養 大坪喜美雄
舞囃子 春日龍神 友枝真也
一調 東北 中村邦生
狂言 成上り 野村万蔵
独調 薪之段 山内崇生 辰巳和磨
一調 笠之段 狩野了一
能 景清 友枝昭世


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