見出し画像

和本に見る能楽 小瀬甫庵『信長記』2 牛一と甫庵と清盛と信長

さて、これから小瀬甫庵と太田牛一それぞれの『信長記』について両者の大きな異同に気を付けながら本文を見ていきたい。

実は、いきなりから冒頭から大きく違っている。
そして今回取り上げる信長と清盛との関係性の記述は、牛一著では見つけられなかった(見落としであることがわかった場合は、後で訂正させていただきたい)。
比較対象の本は、現代語訳版なので表現は関係なく、内容を見ることにする。
参考:『地図と読む 現代語訳 信長公記』中川太古訳 KADOKAWA

ここでは、2つの『信長記』を取り上げるため、区別として太田牛一によるものを『信長公記』、甫庵のものを『甫庵信長記』と書くことにしたい。
牛一が書いたものは、『原本信長記』、『安土記』、『信長公記』、『織田記』、『大田和泉守日記』など様々なタイトルで伝わっているとされ、書名が確定していないらしく、広く使われている『信長公記』を使うのが、適当だと考えたのである。
参考:『『信長記』と信長・秀吉の時代』金子拓編 勉誠出版

甫庵信長記 巻第一上 起 筆者蔵

『信長公記』では、信長入京迄を首巻で扱い、その後本編として1巻から15巻としており、首巻は信長の父織田信秀に関する内容からのスタートになっている。
一方、『甫庵信長記』では、まず格調高く"起”から始まる(しわを伸ばして撮影するのが難しかったので見づらい画像となった点はご容赦いただきたい)。
和本では、このような序文から入るものが多いが、和本が好きな私でも正直、読み飛ばしたくなる部分だが、4行目を見てほしい。
孔夫子の文字が見える。甫庵は儒教的理想を織田信長で描こうとしたとの指摘があるそうだ。今後の本文を見ていくうえで重要な視点だと思う。
参考:『古典文庫 信長記』神郡修校注 現代思潮新社

甫庵信長記 巻第一上 起 二丁裏~目録表 筆者蔵


さて、いよいよ本文の「興亡」の書き出しは、「ソレ オモンミれば天下を治るに道あり。」とやはり面倒くさいのだが、ちょっとカッコよい始まり方である。
夏、商、周と古代中国の例を挙げ、その後「神武天皇より百有七代の御門正親町の院の御宇…」と続けるところは、平家物語や太平記のような軍記物を意識した書き方ではないかと思う。

甫庵信長記 巻第一上 目録裏~一丁表 興亡 筆者蔵
甫庵信長記 巻第一上 一丁裏~ニ丁表 興亡 筆者蔵

現代では耳慣れない表現「神武天皇より○○代」という紹介の仕方は、戦前の教育を受けた方々には馴染みがあるのかも知れない。
謡曲(能の謡)では、「人皇ニンノオ」という言葉で同じように神代と区別して使っているのを見かける。
参考:『謡曲大観』第三巻 佐成謙太郎 明治書院
・「田村」後場 シテ謡
"今は何をか包むべき。人皇五十一代。平城天皇の御宇にありし。坂上の田村丸”
・「當麻タエマ」前場 地謡
"ソモソもこの當麻の曼荼羅と申は。人皇四十七代の帝。廃帝天皇の御宇かとよ。”
ついでに神代の例も挙げておく。
・「玉井タマノイ」前場 ワキサシ謡
"それ天地開け始まりしより。天神七代地神四代に至り。火火出見ホホデミの尊とはわが事なり。”

甫庵信長記 巻第一上 十三丁裏~十四丁表 信長公御先祖之事 筆者蔵

先の「信長卿御先祖事」に進もう。今回のテーマ、清盛と信長である。
右側のページ最後より3行目から「遠ク先祖ヲ尋ルニ平相国清盛公ヨリ信長公マデ廿一代の後胤トカヤ。」とある。

浅学のため、正確性は心もとないが参考として要約してみた。

平氏の貴族の愛妾の一人が孤児を抱えて近江国津田に落ち延び、美しいので地元の長が妻とした。子供がたくさん生まれたのち、毎年訪ねてくる越前国織田庄の神主が、自分には子供がいないから一人下さいという。そこで、自分の子ではない孤児を与えた。その後尾張六奉行のうち一人が遠流になったので、かの神職の子がその職に抜擢され、次第に繁盛し信長につながった。

さて、本当に信長の祖先が平清盛になのか?という点が疑問だが、調べると信ぴょう性に乏しいとか、でたらめだという話ばかりである。
歴史作家・歴史研究者の桐野作人氏の著書『織田信長』では、以下のように述べている。
"大和守の下に「三奉行」がおり、それぞれ織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠だんじょうのじょうがいた。このうち、織田弾正忠が信長を生み出した勝幡しょばた織田家である。弾正忠家の系譜で判明しているのは、信秀の祖父良信すけのぶ(西巌)、父信貞(信定とも、月巌)である。大和守家の庶流であろうが、それ以上の系譜は不明である。”

では、『甫庵信長記』の原作ともいえる『信長公記』ではどうかというと、織田家の系譜に関する記述は探せなった。首巻には信秀の先々代が西巌とするところまでである。
大久保彦左衛門忠教は『三河物語』で甫庵の『信長記』に偽りが多いと指摘しているそうで、一般的には、太田牛一の『信長公記』の方が資料としての評価が高いらしい。素人としては、頷くほかない。

しかし、江戸時代に塙保己一によってまとめられた『續群書類從』巻第百四十二 系圖部三十七の「織田系圖」では多数の紙幅を割いてそれに従った系図が掲載されている。
図書館で借りようとしたら館内専用だったので、コピーさせてもらったが、何と127頁から152頁まであり、桓武天皇から淸盛で1ページ。次ページは長男重盛の家系となり、重盛の次男資盛、そして子の盛綱、親眞に続く。
親眞の説明は以下の通り。
"江州津田。越前織田元祖。親眞在胎中。及三箇月平氏沒落之間。父資盛潜令隠容親眞之母。(以下略)”

さて、この先信長にたどり着くのだが、整理して視覚で捉えたいと思い、気軽にエクセルで系図を書いてみようと思ったのが間違いの始まりだった。307名分すべてを図にするには、配置がとても難しく、1か月近くも費やしてしまった。せっかく作ったのだが、あまりに多くの人なので作成しながら後悔した。エクセルでも、かなり縮小しなければ収まらず、画像にしたら見にくいため、一応全体版の他に簡略版を掲載する。
複雑なので慎重に何度も見返ししたが、見落としや間違った紐づけがあるかも知れないので、誤りを発見したら修正したい。

織田系圖 『續群書類從』巻第百四十二 系圖部三十七 を基に作成(筆者)


織田系圖 (簡略版)『續群書類從』巻第百四十二 系圖部三十七 を基に作成(筆者)

ところで『甫庵信長記』では"廿一代の後胤“だが、数えてみると20人目が信長である。後胤の数え方の問題か、本当はもう一人いるのか。
そこで、『平家物語』巻第一「祇園精舎」を参考にした。
"その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。”
葛原親王も入れて九人目が正盛なので、この数え方なら清盛から21代の後胤は信長で問題ない。

捏造だということになるだろうが、よくここまででっち上げたものだと思う。信秀の祖父は、先の紹介した桐野氏の本によると良信だが、この系図では敏定である。この人物が同一としても14代前の親眞とどうやって結び付けたのか。

エクセルに作成した系図にはとても記載できなかったが、307名それぞれに、官職や諱もあり、人によっては没日や葬られた寺などの記載もあり、たくさんの「女子」も、だれの室(妻)とか母など多くの情報が盛り込まれている。ここまで入念に積み上げられたら研究者でなければ嘘は見抜けないだろう。

福井県越前町織田文化歴史館のウェブサイト「デジタル博物館」に信長の先祖に関する平氏、藤原氏、忌部氏の3説が掲載されているので、興味のある方は同サイトを閲覧してほしい。

それにしても鎌倉時代以降は源氏の末裔を自称するなら分かるが、なぜ壇ノ浦に沈んだ平家にルーツを求めたのか。ライバルの武田信玄は甲斐源氏の末裔だというので、対抗する意図でもあったのだろうか。

さて、次回は、平家の侍大将悪七兵衛景清の刀アザ丸を紹介したい。

■公演情報
確認できた半年以内の公演予定を記載(敬称略)
〇田村
・2023年9月2日(土)セシオン杉並 能の会
セシオン杉並ホール
仕舞 田村キリ 中森貫太 
仕舞 杜若キリ 観世喜正
狂言 萩大名 山本東次郎
能 高砂 永島充
・2023年9月15日(金)会場40周年記念公演
国立能楽堂
一調一声 三井寺 梅若桜雪 大倉源次郎
狂言 萩大名 野村萬
能 白田村 友枝昭世
・2023年12月10日(日)大江定期能
大江能楽堂
能 田村 大江信之助
狂言 伯母ヶ酒 茂山忠三郎
能 山姥 宮本茂樹
〇玉井
・2023年7月26日(水)日本全国能楽キャラバン!宝生流「Go to 能」
青島神社 能楽殿 メディキット県民文化センター
能 玉井 貝盡 宝生和英



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?