『待つ』という時間

 例えば、作家さんの原稿を待っている編集者の方とか、そういった意味での『待つ』ということは今でもあると想像できる。仕事上でいろいろ待たされたり、また相手を待たせる、ということも多々あるだろう。それでも日常生活において、『待つ』という時間は昔と比べてかなり減っているように思う。本にしても音楽にしてもすぐにダウンロードできるし、暇だと思えるようなときには動画がいくらでも見ることができなくなった。

 何かについて公に発言するということは昔はできなかったが、今では難しい手順などを踏まずにSNSなどでいくらでも可能になった。思ったことをすぐに書き込めるようになったことで、そこで何かを書くことによって発散するという使い方も見受けられる。良い悪い、ではなくそんな時代になった。つまり、そう言ったものが誰でもが使えるツールになり、既に先鋭的なものではなくなり、井戸端会議がネット上で繰り広げられている、それだけだ。
 井戸端会議と違うのは書いたものは目に見えるものになり、さらに残るものになった。削除しても誰かがデータ化している、そんな時代だ。
 何かの情報を得た時に、それが正しい情報なのかどうかを慎重に自分で調べるということも必要な時代ではあるが、果たして様々な情報を得ることができたとして、それで何かがわかるのか、というと甚だ疑問だ。
 
 そのときに正しいと大勢が言ったとしても、それが後になって過ちだったことがわかった、そんなことが過去にあったことは人の歴史が証明している。ただ、人はそんなに賢くないのか、というと意外とそういうわけでもないと思う。いろいろと処理するには時間がかかるのだと思う。だからときには『待つ』ことも必要なのだと思う。待って、自分の頭で考える。反応的に何かに対して返すよりは、しっかりと考えることが大事なのではないかと考える。それを面倒だと思い、人任せにすると、あまり良くない形で人の歴史は繰り返されることになるように思う。

 これから、さらに刺激的な視覚情報がことを推し進める時代になるだろう。でもたまには目を閉じて考える時間があると、もっと豊かな時代を迎えることができるのではないか。視覚的なものに隷属的な音ではない音が聴こえるようになるかもしれない。

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 本日の楽曲は、アンビエントものです。元は9分近くありますが短いバージョンをアップしました。


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