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台風と傘から見る「自分への期待」  437

地図上ではまだ台風はやってきてないのだけど、もう通り過ぎた気になるほど穏やかな夜の始まり。

今日の昼間はお天気の隙間を見計らって買物に出たはずが、すんごい雨降りにあい郵便局は閉まってるは、傘がニュースで見るような風にあおられて反対にバッサーっとなるのを初体験するはでなかなか盛りだくさんだった。

ちなみに傘はバッサーっとなったのにちゃんと元に戻ってくれて「なんて賢いんだ!日本のビニール傘はっ!」と大いに褒め称えたりしていた。


「なんであんなに風が強いのに傘をさそうとするんだろう?」なんてニュースを見ながら思っていたくせに、今日の自分は台風接近間近とわかって出かけていたにも関わらず、雨に気を取られて風のことをさっぱり忘れていた。

「いやいや、そうは言っても傘をさそうとしたらわかるでしょ?」ってなところだけれど…その時の頭の中は「濡れるーー!」の一点集中だったような…。
そう、体は風を受けているはずなのに、そのことは頭の中にない…というか、別のもの(濡れるーーー!)に占領されているってことだ。

うん、人間って、わたしってそういうもんなんだなってことがよくわかった。


何か人間の本質的な「つくり」みたいなものとは違うにしても、現在の自分の状態は「濡れてしまう」ことにしか意識が向かない程度なんだなと思う。

それを「運動神経」みたいな感じに捉えていた時間が長かったように思うけれど、今はちょっと違うようにも思っていて。

それって「あきらめる」とか「受け入れる」というか「期待しない」みたいな話のように感じている。


昔は「あきらめる」にあんまりいいイメージを持っていなかったのだけど、最近は「明らかに見る」という捉え方があるということを聞いて、そちらの方から眺めるようになった。
責めたり、突き放したりの「あきらめる」じゃない、もっとフラットな「そのまま」の見方。


で、たとえば今日の「なんで傘なんてさしたんだ?」は「もっと周りの状況を見なきゃ」とか「判断力をあげろ」とか色々くっつけようと思えば出てくると思うのだけど、それって「向上心」という言葉の裏に「自分への期待」がくっついていると厄介だったりする。

もし「自分への期待」がくっついていると、変に感情が入ってくるというか…自分を責めたりして「シンプルに行動の改善をはかるだけ」のものに何か重しをくっつけるようなことになりがちだと思っている。

だったら一度「自分はそういう質がある」と認識した上で、たとえば「そんな日は外に出ないようにしよう」(←ほんこれ)とか「傘はささない=濡れる覚悟で行こう」(?)みたいに(まずい例えはさておき)「その質」を受け入れた後の策を考えてみる方が自分責めより健全だな、と思ったりする。


この「自分への期待」って、たとえば「〇〇しなきゃ」もそこに含まれると聞いた時には正直のけぞった。
「努力」「いいこと」「向上心」みたいなものとして「お団子状」みたいにごっちゃにして捉えしまっていたってことだ…と初めてわかった。


こうやって一個ずつ、雑だとも思わずお団子にしていたものをバラバラに見直していくようなことを最近よくやっている。

台風一過のように「一度でスッキリ!」とはいかないけれど、少しずつ気が楽になったり、自分の中の風通りが変わったりしながら進んでいる。




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