ブレンダのサムネイル

「四度目の夏」 2

2046年7月24日16:55 白雲岳


 東京からリニア新幹線「火のとり」で1時間半、それからバスを乗り継いで2時間25分。バスは舗装された山の中をずっと上がっていく。

 ガードレールすれすれを対向車とすれ違って、崖下にある川の石垣をニホンザルが跳ねているのが見えた。ぼくはちょっとうれしくなって、窓に両手と額をつける。
 バスの中にいた小さな子供が猿に気づいて母親に興奮気味に「サルだ! ねぇママ! あれサルだよ!」と声を上げた。
 他の乗客はその高ぶった声に関心もなく、そのままぼんやりと揺れている。猿に興奮するあの子供はきっと、まだこのあたりに住んでそれほど経っていないのか、それかぼくのように期間限定で訪れているのだろうと思った。乗客はまばらで、それにとても静かだ。
  だからぼくはひさしぶりに誰かの声を聞いた気がしてすこしだけほっとした。

 標高1000メートルのそのバス停に降りたのはぼくだけだった。この先は山を削ってできたまだ新しい別荘地しかない。そこが終点だ。残りの乗客はその別荘地の住人か、そこにわざわざ訪れた客なんだろう。ぼくは別荘地に向かう乗客たちの顔を思い出した。
 
 こんな不便なところにわざわざ住む人の気が知れないと言って、ぼくの新しい母は父を連れてギリシャに夏の旅行に出た。去年までの三年間は毎年家族で父さんの実家であるここに遊びに来ていたけれど、ぼくは夏休みを過ごす場所をギリシャではなく、おじいちゃんとおばあちゃんの家にした。
 夏なのに風が涼しくて、まだ早いのに夕闇のにおいがした。東京とはちがう景色。ここは白雲岳の中腹で、頭を上げればぼくがこの夏を過ごす寺の山門が見える。
 白泉寺。父さんが生まれた家。おじいちゃんとおばあちゃんが暮らす家だ。
 山門に向かって石でできた急な坂道を、リュックを背負って登っていく。
 ぼくは体重が平均より少なくて、スポーツもしないから、あっという間に息が荒くなった。さっき降りたバス停のあたりよりもずっと空気が薄くなった気がする。去年父さんの新しい妻は細くて高いヒールの靴でこの坂道を歩き、長い旅路の末のこの坂道に悪態をつきまくって父さんを困らせたことを思い出した。
 
 両脇には深い緑の木で生い茂っているのに、標高のせいか東京で聞く蝉の声も聞こえない。でも音がないということはなくて、葉が擦れ合う音と見えないだけで無数の生き物(父さんの新しい奥さんの大嫌いな虫も含めて)が息をひそめているがなんとなくわかる。
 知らないやつが来た、あいつだれだ、って、ぼくを指差しているだろう。
虫や鳥やちいさな生き物たちが、たった今ぼくを見つめているだろう。
 山門に懐かしい影が見えた。
「おばあちゃん!」
「いらっしゃぁい」
割烹着を着た祖母が山門で出迎えてくれた。
「今年は一人で来るって言うから、ばあちゃん心配で心配で。ほいでも一人で無事によう来たねぇ。疲れたんしょう」
「ぼくはもうすぐ14歳だよ。それに毎年来てるんだもの。これ、父さんからのお土産」
 紙袋を手渡すとばあちゃんはそれを受取って、「ああ、いい香りのするお菓子だぁね。みんな喜ぶよ」と笑った。
 ぼくはリュックと背負ったまま伸びをして、「一年ぶりだ」と後ろをふりかって淡いあかね色に染まった西の空に声をあげた。霧に覆われた深い緑の下界と少しばかり近くなった空を見上げた。
「あれぇ、背ぇが伸びたんでない?」
 おばあちゃんが言うので、ぼくは頷いた。
「うん、もうちょっと伸びると思う。でもまだ父さんをぜんぜん超えてないよ」
「あの子は大きいもん。中学生でじいさんよりも大きかったもん。だからあんたもいずれはお父さんを抜きよるよ」
 おばあちゃんが笑った。おばあちゃんは去年より日に焼けてちいさく見える。だけどそれはぼくの身長が伸びたからそう感じただけかもしれない。
「みんな元気?」
 ぼくは聞いた。
「みんな元気よう」
 山門をくぐって庭に入った。きれいに掃除された境内の石畳を歩いていく。
「おじいちゃんも佳奈江さんも益司さんも?」
佳奈江(かなえ)さんは父さんの妹で、益司(ますじ)さんはその旦那さんだ。
「みんな元気元気」
「よっくんとみっちゃんも?」
 義之(よしゆき)くんと美南(みなみ)ちゃんは佳奈江さんと益司さんの子供で、ぼくのいとこたちだ。
「よっくんとみっちゃんは朝からはりきって待っとって、みっちゃんは待ちくたびれて寝りやんせ。そろそろ起こさんと夜眠れんようになるって、佳奈江が言うとったわ」
 ぼくは笑った。
 正面に古い本堂が静かに佇んでいる。境内入ったすぐ右手に鐘堂があり、本堂の右手に渡り廊下で繋がったおばあちゃんの家がある。境内左手には大きな楠。寺の向こうには白雲岳がそびえて、夕日を浴びて巨大な輪郭だけが朱色に光っていた。
 
 ぼくの父さんは古い歴史を持つ修験寺だったこの白泉寺に生まれた。
 だけど父さんは仏門に入ることはなく、大学進学とともに上京して、そのまま東京で仕事を始め、のちに事業を興し居を構え、ぼくの母さんと結婚した。
 父さんは寺に帰らなかった。そしてその母さんは去年がんで死んでしまった。それからたった一年も経たないうちに若くて派手な女と父さんは再婚した。
 
 父さんが上京後初めて白雲岳町に帰ってきたのは、ぼくが生まれて十年も経ってからだった。
 ぼくの夏休みを利用して、最初の二年は一人息子のぼくとぼくの母を連れて、去年はぼくと新しい妻を連れて、はるばる自分の両親に会いに行った。それも三年で終わった。今年はぼくひとりだ。

「さぁ、きっとよっくんとみっちゃんがそろそろ起きていとこのお兄ちゃんが来るのを今か今かと待っとりやんせ。お腹すいたでしょう。今晩はばあちゃんと佳奈江で腕をふるうけん、お腹いっぱい食べてぇね」
 境内を腰で手を組んで歩くばあちゃんの背中を見た。やっぱり少し痩せた気がする。
「にいやん!」
 庭から見える縁側で大きな声がした。よっくんだ。
「いらっしゃーい」
 縁側で叔母の佳奈江さんが手を振っている。ぼくは帽子をとって頭をさげた。
「こんにちは! 今年もよろしくです」
「東京からよく一人で来たねぇ。お腹空いたでしょう! さあ早く入って。お夕飯の支度するからね」
 佳奈江さんの膝にしがみつくようにいるのがぼくの従兄弟のみっちゃんだ。たしか今年5歳になる。
「ほら、よっくん、みっちゃん、こんにちはして」
「よっくん、みっちゃん、こんにちは。今年もたくさん遊ぼうね」
「ええよ! なんして遊ぶ?」
 よっくんが返す。
「こら、まずはこんにちは、でしょ」
 佳奈江さんがよっくんを叱った。
 坊主頭のよっくんはそう言ったけど、柔らかい猫毛のみっちゃんはなんだか恥ずかしそうにもじもじしている。よっくんは11歳だ。ぼくより背はちいさいけど、顔つきが男の子っぽくなった。眉がしっかり一文字になってて、目に力がある。さすが修験寺育ちだ。
 みっちゃんは小さいからぼくと去年もおととしも会ったことなんて覚えていないのかもしれない。よっくんはランニングシャツと短パンだけど、みっちゃんは長袖のTシャツを着ている。たしかに夕方になると半袖はちょっと肌寒い。それにさっきから蚊の羽音がときどき耳の周りでしている。半袖はキケンだ。
「みっちゃんは人見知りなのよね。ごめんねぇ、すぐ慣れるから。なに恥ずかしがってんの」
「菓子もらったよ。東京の菓子だっさ」
 ばあちゃんが紙袋を持ち上げると、よっくんとみっちゃんは縁側から素足のままおばあちゃんに寄ってきた。
「二人とも靴履かんとぅ。それにちゃんとほら、ありがとう、って言わんと」
 おばあちゃんがそう言うと、二人は「にぃやん、ありがとう」「ありがとー」と口々に言った。ぼくは一年ぶりにいとこたちから「にぃやん」と呼ばれた。三年前の夏にはよっくんの前歯の乳歯が二本ともなかったけど、今はしっかりした歯が笑顔にのぞいている。
 そうだ、思い出した。10歳で初めてここに来た時ぼくの奥歯にあった最後の乳歯がグラグラしていたのを、「脱いちゃえばいいのさ、こういうのは、こうやって」と、いきなりぼくの口の中に人差し指と親指をねじ込んできゅっと抜いたのは益司さんだ。
 ぼくはあんまりびっくりして、かっこ悪いけどみんなの前で泣いてしまった。父さんにだってそんな乱暴なことはされたことがなかったんだ。でもそこに、しっかりした奥歯が生えた。

「おお、よく来たね」

 玄関からの声にぼくは振り返る。佳奈江さんの旦那さんの益司さんだ。
 このお寺の住職を務めている。やはり長袖のTシャツとデニムのパンツに、下駄を合わせている。そして光る頭はスキンヘッドだ。

 ぼくは奥歯を抜かれて泣かされても、不思議とこのお坊さんに苦手意識を持つことはなかった。
 学校の先生だって、生徒を腫れ物のように扱っているのをぼくは子供ながらに気づいていて、だから生徒のぼくもそれにあぐらをかくならまだしも、遠慮に遠慮を重ねて、結果距離を置く関係となってしまった。先生との距離を縮ませようとするのは生徒たちよりもその保護者のほうだ。もっともぼくの父は放任主義だし、継母はぼくに関心などないし、死んだぼくの母さんは節度を持って教師と接していたと思う。

「今年もお世話になります! この夏休みをすっごい楽しみにしてました」
 ぼくは頭を下げた。

最後まで読んでくださってありがとうございます! 書くことが好きで、ずっと好きで、きっとこれからも好きです。 あなたはわたしの大切な「読んでくれるひと」です。 これからもどうぞよろしくお願いします。