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体型の話

銭湯へ行った。
花火大会の前日だからか、いつも数人のおばあさんと風呂に入るのだが、その日は親子連れや私と同じくらいの歳の友人同士もたくさんいた。


よく他人の体を観察してしまう。
人工的な(無理の効いたともいう)体がずっと好きだった。骨々しかったり、脂肪のない直線だったり、横から見た体の薄さだったり。その体から滲み出る、孤独とか、冷たさとかが、自分に共鳴するようだった。


自分の興味が痩せから、自分自身とか人生の豊かさ、みたいなものに移り変わってきたのは最近のこと。十何年も痩せに囚われて生活を送ってきたけど、満たされなかった。本当の飢えは体じゃなくて心の中にあるとようやく体感として掴めるようになってきた。29歳になった。


そしたら銭湯の景色も徐々に変わっていった。
小さな子供を連れたお母さんの帝王切開の跡や、丸みを帯びた肩や腰。小学校高学年くらいの女の子の小さく膨らんだ胸。大きく下に垂れ下がった胸やお腹、お尻を持つおばあさん。
その人の生きた証が見える体が美しくて、私はばれるまいと思いながらしばらく彼女たちを見つめてしまう。


肩の丸み、お腹から腰にかけての曲線、お尻。ずっと受け入れられなかったその体を、最近になって、いいのかも、と思うようになったのだ。とんだ変化である。


実は、私も今の自分の体は嫌いじゃない。いわゆるシンデレラ体重や美容体重には程遠いけど「痩せなければいけない!」という意識がほぼない。ほぼないどころか、私の暮らしの結果、仮に今よりも丸みを帯びた体になったとしても、それは私の生きた証であるし、そこには生身の美があると思っている。


好きな服を着てもいいし、好きな人に会いに行ってもいい。笑ってもいいし泣いてもいいし、怒るときだってあると思う。それでいいのだ。


私の中で生き続けている言葉がある。

「目指したい体型が先にあるというよりかは、自分の好きな生活スタイルによって生まれた体型を愛せたらいいなって」

八木まさみさんの言葉である。
当時はそんな考えもあるのかと遠い世界の話だったが、今ならわかる気がする。


自分に「そのままでいいよ」と言うのは難しい。でも、なるべく自分のことは嫌いでいたくはない。自分のことばっかり考えていたら、自分と一緒にいることすら嫌になってきたりする。だから好きな生活のことを考えてみる。その生活の延長線上に、きっと待ってくれている私がいる。私はその私を受け入れられる自分でいたい。


これが俗に言うボディポジティブとやらか?その答えはよくわからない。長く浸かるには少し熱い湯船、今日はこれくらいにしておこう。

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