高石友也さんから受けとったこと
高石友也さんから受けとったこと
2002年8月19日のニュースで、高石友也さんが亡くなった(82歳、8月17日)と流れました。
なんとなく、100歳を超えても「僕はフォークソングが好きで・・・」とステージに立っていると、そして同時にマラソンの最高齢記録を塗り替えていくのじゃないか、と勝手に思っていました。
でも、毎年恒例の年末コンサートを2022年に終わりにするという話もありました。ちょっと、あれ、とも感じましたが忘れていました。
高石友也さんのファンは団塊の世代の上下くらいだといいます。僕は下のさらに下になります。なのでファン層の世代が違い、同級生と盛り上がった記憶がありません。逆に、どのような経緯で僕がファンになったか、僕としても不思議です。
でも、ファンだったのは事実です。
僕の憧れ、敵わないな、できることなら同じことができるようになりたいと思った人でした。
でも、僕が高石友也さんを知るようになってから大ヒットがあったわけではなく、テレビに出続けたわけでもありません。どこに憧れたか挙げようとして、はたと手が止まりました。
友人などにも説明できていませんでした。
どこに惹かれているのか考えないままコンサートに行ったり、友人を一緒に誘ったり、CDを買ったりしてファンを続けていました。
当時「何に惹かれたか?」おそらく感じていただろうことと、今推測するとしたらこのようなものです。
①唄がうまい。
②僕の声域で歌える。
③歌詞で自分の知らない世界を教えてもらった。言葉の選択、使い方が心に刺さった。
④僕が心地よいのは、ナターシャー・サウンドで演奏されたオリジナル曲、旅の曲、人生とは何かを教えてくれる曲だった。
⑤高石ともやさんの唄とナターシャー・セブン(城田純二さん、坂庭省吾さん)の演奏が組み合わさって、とても魅力的だった。
⑥演奏曲の背景の説明を聞いて受け入れることができた。
思いやこれまでの体験をつづります。
①[唄のうまさ]
唄のうまさはピカ一です。演歌や民謡の人のうまさと同じです。
洋の東西の「フォークソング」を歌ってこられました。
アメリカのフォークソング、ヨーロッパのトラッド、日本の民謡や子守唄など、すべてフォークソングです。
曲の決まった節回しはあるけれど、曲が乱れない程度に音を上に下に節回しをつけていきます。
バンドでハーモニーも聞かせるし、曲の終わりのつじつまが合います。
祭りの音頭が曲が延々と続くように、何十番までも続く終わらない曲があります。レコードやCD、ステージの時間制限から、それらに合わせて終わります。歌詞はある程度決まっていても、即興で歌詞が挟まったり、ほかの曲から借りたメロディーが使われたりします。
それらを音程を外さずきちんと歌い切ります。
②[声域が合っている]
ファンになる理由の一つは、自分でも歌えることです。
好きな曲は無理してでも歌おうとしますが、やはりキー(音程)が合っていた方が歌いやすいものです。
やらなくてもいいのですが、つい歌まねをしてしまいます。
③[歌詞の中の言葉の選択、使い方]
「失う何もない それが自由 価値ある何もない」(ミー・アンド・ボビー・マギー, K.Kristofferson, 訳詞:高石友也)
この言葉を何度唱えたか。
自分の生き方と比べては、そのようにできていない自分を責めていました。
でも時には、自分からいろいろ失いながら「自由に近づいている感じがするか?」と自問していました。経験しないとどんな感情が出てくるかわからないものだ、と自分を眺めながら。
ただし、「高石友也とザ・ナターシャー・セブン」の曲はすべて高石友也さん作の歌詞ではありません。
すべてが高石友也さんの歌詞ではなく、北山修さんやほかの人が作詞した作品もたくさんあります。曲はアイリッシュやトラッド、オールドタイムもあり、書いてもらったものもあるようで同様です。
ナターシャー・サウンドでの北山修さんの歌詞は、ポップさを狙っている面もあるのか、鋭い言葉が使われていてもさわやかなサウンドになっています。
実際のところは知りませんが、曲をつける時、1曲をステージで演奏する形にするときに、メンバー全員で調整して作り上げていったのでしょう。
④[好きな曲]
僕が心地よいのは、ナターシャー・サウンドで演奏されたオリジナルの走る曲、旅の曲、人生とは何かを教えてくれる曲でした。
お気に入りのCDは次の4枚でした。
ヒット・エンド・ラン https://amzn.to/3Zra627
シングル・コレクション https://amzn.to/4d8Ma6Q
自分をほめてやろう http://www.tees.ne.jp/~isawada/takaishi-tomoya-cd50.html
あわてなさんな http://www.tees.ne.jp/~isawada/takaishi-tomoya-cd-034.html
マラソンで走る曲が多いですね。僕は走らないけれど、自分の足で走って目で見た旅の歌です。
そんなところがお気に入りでした。
高石友也さんは、「世界中のフォークソング」を紹介して歌いたかったのでしょう。
だから、幅広く曲のジャンルが広がります。ファンも全部のジャンルをカバーしているというよりは、心地いいと感じるところだけを聞いているのじゃないかな。人によって「街」とか「ブルーグラス」とか。
その意味からすると、紹介したCD4枚は偏っています。これらは、おそらくストリーミング音楽に登録されることは無いだろうなあ。
⑤[ナターシャー・セブン・サウンド]
僕が好きなザ・ナターシャー・セブンのサウンドは、城田純二さん、坂庭省吾さんが在籍した1973年~1984年です。その音楽を僕の言葉では表しきれないので、城田純二さんのWebサイトから引用します。
「高石友也さんの歌に城田純二さん、坂庭省吾さんのギターなどの演奏を乗せる」
これが、ナターシャー・サウンドです。誰が欠けても、この音楽のグルーヴは出てきません。
引用してみて、「これだ!」なのだけれど、僕にはつづれない言葉たちです。
⑥[曲の背景]
コンサートの時のトークを全く覚えていません。「外国の音楽を日本語で歌う」説明はなかったと思います。海外の作品を日本語化した曲も、オリジナルの曲も、すべていい作品だし、作品の背景も説明してもらっていたはずです。覚えていないけれど、受け入れられました。
高石友也さん自身から僕の上の世代までは、英語の曲は英語で歌ってきたので、日本語化して歌うというスタイルに反対意見が渦巻いたといいます。今のようにSNSはなかったので、おそらく音楽会社やコンサート会場に乗り込んだり、手紙や電話で抗議したのだと思われます。複数グループが出演するステージでヤジが飛んだのかも。事実を調べていないので、推測ですが。
だからこそ、その抗議に直接考えを述べたり、言葉で触れないで完成した音楽で理解してもらおうとしたのではないかな。
いやいや、ステージングの完成度が高い高石友也さんなので、訳詞を付けて歌った曲を選ぶときは、本当にいい曲を選んだし、それに訳詞をつけて曲として完成するまで最大限の注意を払い、演奏のクオリティも最上級で、もとが日本語でないと意識させない作品に作り上げていたのでしょう。
僕は最初から高石友也さんの曲に触れているから、日本語で疑問を感じたことはありませんでした。
それよりも、フォークソングは労働歌の面もあるので、その曲ができた背景、歌われてきた場所についての解説を「なるほど」と聴いていました。
僕の好みには関係ないけれど、今になって気づくことも出てきました。
⑦企画力、プロデュース力が高い。
107ソングブックシリーズや宵々山コンサートの企画。
高石友也さんの企画力、プロデュース力、実現力がとても高いとわかります。
⑧人付き合いの広さ。
北山修さんなどフォーク業界、カーターファミリーなどの海外音楽家の人のほか、桂米朝さん、永六輔さん、渥美清さん、などが宵々山コンサートのステージに立っています。
「本物」の音楽を作っていたから、繋がっていったのかも。
⑨ステージングが見事。
毎回ステージを作り上げている。企画力と実行力とそれを実現する実力と練習。
客席からのファンとしてのヤジ、悪意からのヤジがあっても、適切にさばいてステージを完成させていました。長浜であったジョギング大会の後のコンサートで目の当たりにしました。
⑩バンマスは構想を実現するために動き、時に横暴になる。
バンマスは、バンドマスターのこと。
すべてのリーダーは、メンバー、曲、ギャラまですべてを決めます。
特にメンバーは、メンバーとするか、コラボレーションとするか、特別スタッフとするか、選択眼が必要とされる。でも人間がやることだから、雰囲気で決めたり、失敗したなあ、と後で思ったりもしたことだろう。
練習や演奏前後の楽器のメンテナンス、チューニングでは鬼だったという噂。オートハープは36~37弦です。
ザ・ドリフターズのいかりや長介さんも「鬼軍曹」と呼ばれていたと記憶しているので同じです。
⑪ヒーローじゃない、ヒット曲がない。
ヒーロー型ではないし、飛び抜けたヒット曲があるわけではないので、どこがいいのか伝えるのが難しいと感じていました。比較的知られている「受験生ブルース」「思い出の赤いヤッケ」「街」を挙げても伝わりません。カラオケに入っているのもこれらの曲だけです。
ポップな曲調、アレンジの曲もあったので、ヒットも目指していたのだろうとは思うけれど、
「京都から自分たちの音楽を発信したい。良いモノだったら人は来てくれる」
という考え方は、理屈っぽい人にはわかってもらえても、「その音楽を作り続けてステージから届けている」という最後までやり続けている行動までは見てもらえない気がします。
⑫ラジオなど。
コンサートに何度か行ったり、レコードを聴いていたほか、
現在の「京都放送」の深夜放送ラジオ「 日本列島ズバリリクエスト~ハイヤング11~ ハイヤングKYOTO」の枠の番組を聴いていました。(番組名を覚えていないけれど、このあたり)
24時を過ぎると城田純二さん、坂庭省吾さんにマイク前が代わって、ブルーグラスの演奏や弾き方講座だったような。
思い出はこんなところです。
これからはもうコンサートが開かれることはないし、生の歌を聞く場面はなくなりました。
新しいCDも出ないし、高石友也さんの新しいチャレンジを知ることもなくなりました。
(トリビュートアルバムは、選曲と歌い手選びが難しそうです)
僕が感傷に浸るのは置いといて、
それぞれの歌は、各地のフォークソング好きが歌い継いでいくのでしょうが、年齢が上がるにしたがって消えていきそうです。
プロが自分のレパートリーに加えて歌ってくれないかなあ、と夢想します。