AIと僕の距離
NotionというEvernoteと同様のアプリを試していた。
文章作成機能に「AI」が使えるとのこと。タイトルを入れてボタンを押したら勝手に文章を作りはじめた。もっともらしい。これをワークショップやブログで使っても、「わかりにくい」という人はいないだろう。明らかな間違いだけを直したら、文章構成も立派なので「すごい」と言われてもおかしくない。でも、心に引っかかるものはない。
昨年から世間では、「AI」というと「生成系AI」が固定したイメージらしい。テーマやキーワードを与えたら、それっぽい文章を作ってくれるもの、というあたりのイメージ。(例:アンケート見本、町内会新年のあいさつ例文など、形が決まっていて過不足なく書かれていればいいもの)
最近は、画像(絵、写真)や動画、音声も「生成」できるようになってきたようだ。
文章を「勝手に」作ってくれることをあまり大っぴらにしたら、この機能を使うだけの人たちが絶対に出てくるだろう。例えば、児童、生徒、学生のレポート、感想文など。ほかにはアクセス数によるアフィリエイトを目的としたWebサイト。コンプライアンスに配慮して、必要なことを過不足なく文章にしてくれるので、こんな便利なものはない。
これが良い傾向ではない、と考える人はわずかだろう。(利点は別の話。今ここでは利点と欠点との差を見てジャッジしたい訳ではない。それにこれからは、AIはあることが前提として付き合っていく技術で、無くなることはない。)
思い起こせば、
今はあって当然だけれど、ほんの100年くらいに普及したもので同様なものに、電気、自動車、パソコン、電話、スマートフォン、電子決済などが思い浮かぶ。
たとえば電気前提の社会になって、電気によって下がった人間の能力について触れられたものはあまり多くなく、大多数の人は電気があることに疑いを持たず前提とした生き方をしている。
家電製品を極力減らした生活をしている元新聞記者さんはその生活だけでなく、すべての考え方について変に絡んでいく人がいるように、「奇人」的な扱いを受けてしまっている。
確かに僕の場合は、パソコン+ワープロのおかげで自分の思考活動がとても楽になった。手書きの文字は自分でも読めないことがあるし、何度も校正して、章や文章を自在に入れ替えるという段階を踏めるのは、エディタ(ワープロソフト)のおかげである。
一方で人によっては、外出中でも物語を考えると頭の中に原稿用紙が現れ、そこに文字を入れていけばよく、帰宅後それを書けばいいだけだと聞いたことがある。
こんな人にはパソコンのキーボード入力は思考を止めるから劣化と言うことだろう。
ワープロが出始めたころ、「文字が美しすぎて、文章校正をしづらい。表現の間違いを見逃してしまう」という意見もあった。
僕もAI使う時がある。
「思考の壁打ち」という人がいるように、考えていることを整理する際に使っている。自分が考えたいこととそのポイントを書いて、AIに全体像を示してもらったり、多数派の意見との違いがあることをチェックしたりしている。
本当にもっともらしい文章が出てきて、若干手を入れて採用としかけたのだけれど、自分が言いたかったこととは違うことに最後に気付いて、完全に書き換えたことは何度もある。最近もあった。
AIの利点が多いのはわかっているつもりなので使いたいのはやまやまだが、「自分(の考え)」を最初にしっかり決めて使わないと、上手な文章に流されてしまう。文章が整っているので自分が何を表現したかったか忘れてしまいそうで、あまり使う気になれない。
書きながら考えたり、自分の文章を校正しながら、発想の抜けや違和感などを拾い出していく書き方をするので、「整った文章」はあまり望ましくない。
AIに文章を整えられると、自分の思考もよくある考え、世間の常識に整えられてしまうからだろうなあ。自分の考えを表現するには、自分の中のフックを置いていくためにも、単語や助詞の使い方が独特になってしまう。それを直されるとつるんつるんの心に残らない文章になるのだろうなあ。
※もともとは、Evernoteの代わりのアプリケーションを探していて(有料でも構わない)、Notionに知って使ってみたら「AIで作成」というのがあったという話。
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