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やりたくないことはやらなくていい

常々、やりたくないことでも、自分の成長のためにはやらなくては、挑戦しなくてはいけないものだと思っていた。でも、それを思い続けるあまり少しつらくなってきていたように思う。その件について、人に相談したところ思うことがあったので書き記しておこうと思う。

結論からして、タイトルの通りやりたくないことはやらなくていいと思うんです。なんでかっていうと、結局はやりたくないことはできないと思うから。

例えば私なんかは、自分から人に話しかけるのが不得意でやりたくないから、後輩の教育とかもやりたくないんですよ。後輩のためを思って話聞いたり一緒に考えたりすること自体は嫌じゃないけど、自分から気にかけて話しかけにいくというのができない。

やっぱり、初対面の人でも気軽に話せるというのは私の憧れでもあるし、そうなりたいとは思う。寝て起きて次の日勝手にそういうコミュ強になってたらいいなと思うけど、コミュ強になるために日々努力しなくてはならないなら、そこまでしてほしい能力とは思えない。

でも、自分にとって難しくて内心やりたくないと思ってるけど、自分が成長するためには多少無理してでもやらなきゃ、と思ってなるべくそういうのやろうとしていたんです。結果的に、今成長してないし、重荷に感じるだけでした。

それをコミュ強の先輩に相談したところ、自分も元々人見知りだったよと話してくれました。その先輩は、自分は能力不足だったけど周りの人に助けられて成長していった、という過去があるらしく、そういう人の優しさに恩恵を受けた結果、「もし、自分がしてもらったように、今度は自分が後輩を助けたら、どういう風に変わるんだろう?」と好奇心を抱いたそうです。

それで「やってみたい」と思い、それをやるためには自分から後輩に声をかけていく必要があるため、人見知りだったけど周りに気を配って話しかけていくようになったということでした。

これを聞いたら、人が変わる瞬間っていうのは、今までの考えを無理矢理変えようとして望んでいないことを無理に努力することではなく、ある日突然降ってくるような感覚なのかなと思った。いつか変われるように鞭打って頑張ることでもなく、いつか変われる日を待つわけでもなく、ある日突然「こうしたい」とひらめくことなのかもしれない。

だから、少なくとも「やりたくない」と心で思ってるうちは、始め時ではないかもしれないと思いました。やりたくないことはやらなくていい、という理由はこのためです。きっといつか、突然ひらめくような転機が来るかもしれないし、一生このままかもしれない。

毎朝、早朝にジョギングしてる人とか、すごいなと思っていたんですよ。自分は朝早く起きようとは思わないし。だからものすごい精神で努力してそういうルーティーンを作ったのかなと思っていたんですが、そういう人も全部、無理やりの努力の結果というよりは、「毎朝ジョギングしてみようかな」みたいな、好奇心やひらめきかもしれないと思いました。

だから、無理にすぐ努力してみようとは思わずでもいいかなと、少し心の荷が軽くなった話。

……
余談だけど、自分より能力がある人に対して結構嫉妬の念を抱きやすいたちだったんですよ。いいよなぁ、こんなに絵が上手ければたくさんの人にちやほやされてさ、とか。生まれ持った才能っていいよなあとか。

今日、鬼滅の刃の映画見に行ったんだけど、それで煉獄さんの回想シーン見てたら「強く生まれたなら、それは自分のためではなく人のために使いなさい」ということをお母さんが言っていて、なるほどなと思った。

才能を生まれ持ってきた人はそれを他人に見せびらかしてるわけではなく(そういう人もいるんだろうけど)、他人のために使っているし、能力というのはそういうものであるべきなんだ。って。そういう風に思うことで、ちやほやされてる(ように見える)人間に嫉妬しづらくなるかなと思ったし、自分もそういう風に使いたいと思いましたね。鬼滅では、伊之助が好きです。

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