見出し画像

女が「自由」になれない理由

「アッコちゃんは世界一」という漫画が空前のバズを見せている。

PV数はpixivだけで既に40万PV超。Twitter等でのインプレッションを含めればその数倍にもなるだろう。これらの数字はオリジナル創作ジャンルにおけるバズとしてはほぼ最大規模と言うべきもので、ちょっと生半可な数字ではない。未読の方はぜひ読んでみてほしい。

ヒット作品はその時代の精神を映すと言われている。文芸批評が過去数世紀に渡って真剣に受け止められてきたのもそれが理由だ。「アッコちゃんは世界一」もまた過去のヒット作と同様に、時代精神(の少なくとも一部)を表しているように筆者には感じられた。

本稿は「アッコちゃんは世界一」を題材に、女性の自由における二律背反について綴っていく。


「アッコちゃんは世界一」あらすじ

「アッコちゃんは世界一」は二人の女性の物語だ。

快活で気の強い主人公のナス。美人だが気が弱く自分の意志をなかなか表せないアッコちゃん。主人公のナスは親友のアッコちゃんに恋情を抱いているが、関係性を壊すことを恐れて気持ちを打ち明けられずにいる。

アッコちゃんは気が弱い。親の言に進路を左右され、強引な男に押し倒され、次第に多くの男性と肉体関係を結んでしまい、同性の友人たちからも疎まれるようになる。

進学を機に上京し、東京で働き始めるナス。アッコちゃんは地元で親の望んだ相手と結婚することになり、二人の距離は次第に離れていく。

アッコちゃんが子供を産んでしばらくの後、アッコちゃんからナスに久しぶりの連絡が入る。

「実はそろそろ死のうと思ってる」
「私の人生は奪われるばっかり」

アッコちゃんの自殺を止めるため、ナスは地元に帰りアッコちゃんの「敵」(アッコちゃんの両親、無礼を働いた産婦人科医、無礼を働いた大学教授、アッコちゃんが過去に付き合っていた男たち、そして読者を含む世界中の男たち)を想像の中で斬殺しながら、アッコちゃんを迎えにいくーーー

全体のお話の流れとしては、そんな感じだ。


アッコちゃんは自由になれない

アッコちゃんは自由になれない。

進路を親に左右され、といって自分で何かを選び取るほどの欲望も意志も覚悟なく、親に、男に、環境に流されるままに生き、結果として親の望む相手と結婚し、そして不幸になった。アッコちゃんは自由になれなかった。それは誰の責任なのだろう。

主人公のナスは「それは男たちのせいだ」と考える。

アッコちゃんは親に「地元に閉じ込められた」のであり、兄に「仕事を奪われた」のであり、男に「処女を奪われた」のであり、交際も「無理矢理」だったのだ。

つまりアッコちゃんは「不幸になった」ではなく誰かのせいで「不幸にさせられた」のだ。その責任は全て男社会にある。だからナスはアッコちゃんを攫い、男を殺すために地元に戻る。

画像1

画像2

「自分の不幸は自分自身ではなく誰か他人の責任だ」という考えは主人公であるナスだけのものではない。ヒロインのアッコちゃんも同意見だ。

「ウチの人生は奪われるばっかり」
「私の人生は誰が一番にしてくれるんですか…?」

折に触れてアッコちゃんは自分以外の誰かが自分の人生を搾取しており、それによって幸せに「してもらえなかった」のだと吐露する。

ナスとアッコちゃんにとって、不幸も、そして幸福も、自分で掴むものではなく誰かに与えられるものなのだ。

本作は「窮屈な結婚生活からの救出劇」が描かれているし、折に触れて家父長制的な価値観が批判されてもいる。そのため「女性の自由」がテーマの作品だと勘違いしてしまう方もいるだろう。しかし本作において「自由」な女性は1人たりとも登場しない。

アッコちゃんは最期まで周囲の誰かに流されるままだ。それが実家から義実家に、義実家からナスに変わっただけで、アッコちゃんは何ひとつ変われていない。何かに依存し流されるだけの女のままだ。

そしてナスもまた「自由」を掴んではいない。ナスは人生の選択肢の全てをアッコちゃんに委ねてきた。アッコちゃんが泊まりに行きたいというから東京の大学を受験し、アッコちゃんが男を作ったから処女を捨て、アッコちゃんが結婚したから適当な男と結婚した。アッコちゃんを攫いに行くのもアッコちゃんに請われたからだ。極めつけは、そんな自分の選択の責任を全て「男社会」に帰させようとしている。何ひとつ自分で選択できず、選択した結果を自分で背負うこともできない。そんな女がナスだ。

他責性の果ての破滅。本作を一言で表すならそんな言葉が適当だろうか。何もかもを他人のせいにし続けた女たちが、遂には人の営みの輪から外れ破滅への道を突き進もうとしている。彼女たちがカップルとして幸福になる未来はあり得ないだろう。全てを他人のせいにしてしまう2人の女が、まともなパートナーになれるはずもない。

彼女たちの本当の不満は「自由になれなかった」ことではなく「幸せにしてもらえなかった」ことにある。しかし「幸せにしてもらえなかった」責任を男社会に求めるところがまた倒錯している。父性を否定しながら父性を求めているのだ。それは現代女性の時代精神とも繋がっているのだろう。本作の際立った時代性は、まさにその倒錯した内心を赤裸々なまでに顕わにしている点にある。

それにしてもなぜ、ナスとアッコちゃんは「自由」になれなかったのだろう。キャラクター名は不要かもしれない。なぜ女は自由になれないのだろうか。


女は自由になれない

「女の自由」を考える上で極めて重要な概念がある。

ここから先は

1,851字
週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

狂人note

¥1,000 / 月

月額購読マガジンです。コラムや評論が週1-2本更新されます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?