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本当は怖い「成熟」の話

最初に言っておくが、筆者は「成熟」という概念のそこそこ熱心な支持者であり、労働と結婚と育児を経由して「大人」になっていくことは人間にとって極めて重要な事柄だと真面目に考えている。

しかし一方で、この「成熟」という概念が実のところ、相当に暴力的なものだという自覚も持っている。暴力的というのは、個人の生き方に干渉し、世の善悪を規定し、究極的に言えば、「成熟」とは人間から「自由」というものを奪い去ってしまう概念であると考えているからだ。

それでもなお、「成熟」は肯定されなければならない。なぜなら成熟することが不可能化した共同体は滅んでいく以外ないからだ──。それが筆者の主張であるのだが、この論の前段たる「成熟の暴力性」というテーゼはいまいち共有されていないのではないか。そのように考え、今回筆を取った。

「成熟」とは何か。

それは規範の強要であり、自由の否定である。

そういうお話を今日はさせて頂こう。


「成熟」の暴力性

「成熟した大人」と聞いて、あなたはどんな人を連想するだろうか。

結婚し、子供を育て、地域社会に居場所を持ち、責任あるポジションで労働者として働いているーーー。そんな人間を連想するひとが大多数だろう。

一方で、自宅に何十年も籠り切り、ネットゲームに1日の大半を費やし、ペットボトルに小便をし、滅多に外出しないひきこもり。例えば彼の年齢が30、40を超えているとして、彼のようなあり方を「成熟した大人」と呼ぶひとは絶無に近いはずだ。

なぜ前者の家族持ち労働者は「成熟した大人」と見做され、後者のネトゲ中毒のひきこもりはそう見做されないのか。当たり前だが、それは「成熟」が社会によって規定された概念であるからに他ならない。

だから成熟の条件は時代と地域によってコロコロと変わる。戦前の日本なら徴兵検査に合格しない人間は一人前とは見做されなかったし、マサイ族の若者であれば槍でライオンを仕留めなければ一人前とは見做されない。1930年代のドイツであればヒトラーユーゲントへの加入こそが成熟への第一歩である。

つまり成熟とは、それぞれの社会が定めた「人間の雛形」を受け入れるということであり、現代日本においては「労働」「結婚」「育児」などがその雛形と見做されているわけだ。

「社会に迎合すること」、それこそが「成熟」の条件である。

「そんなことはわかり切っている」ともしあなたが答えるなら、あなたは成熟の暴力性をまだ十分に理解できていない。

成熟とは社会に迎合することであると述べた。

そしてここが重要なのだが、人間は生まれる社会を選べない。

ここで想像してみよう、もしあなたが生まれたのが、統一教会を信じるご両親の元だったのなら。

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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