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「話し合い」という名の「集団リンチ」から身を守るために必要なこと

「平和的に話し合おう」と言われて、それを拒絶することは難しい。

小学校の「道徳」の授業から、喧嘩の仲裁、国際紛争について論じるTVのコメンテーターまで、知的で良識的と見做されているあらゆる人々が

「暴力ではなく対話で問題を解決しよう」

というメッセージを繰り返し発信し続けている。こうした価値観が広く浸透している現代社会において、「対話」することを拒絶してしまえばその時点で拒絶した側が「悪」と断罪されるのは避けられない。それゆえ対話を拒むことも、対話以外の選択肢を選ぶことも難しいのだ。どんなに対話が嫌で嫌で仕方がないとしても、対話からは誰も逃げられない。

こんな話をすると「なぜあなたは対話を嫌がるのか?」という声が聞こえてきそうである。対話とは暴力に依らず問題を解決する素晴らしい手段であるのに、その対話を拒むとは何事だろう。あなたは対話ではなく暴力を選ぶ野蛮な極悪人なのか?そんな意味の言葉を浴びせられた人は読者の中にも多いのではないだろうか。筆者も含め、特に男性は「対話」という言葉に対して若干の嫌悪感を抱いている人が少なくない。なぜだろう?理由は明白だ

「対話」という言葉を用いながら、その実一方的に「暴力」を振るおうとする人間があまりに多すぎるのだ。

場を操作し、自由な発言を封じ込め、「平等で平和的な対話」に見せかけた糾弾会によって個々人の権利や財産や名誉を侵害する。そうした事例は枚挙に暇がない。つい先日も人気女性漫画の中で集団リンチとしか評しようのないやり取りが「対話」として称揚されている様がネット上で話題になったが、ああいう事例はほんとうにありふれているのだ。少なくない数の人々が「対話」という言葉にアレルギーを抱くのも無理はないところがある。

「対話」を騙りながら他者を攻撃することにしか興味のない卑劣な連中を筆者は心の底から軽蔑しているが、しかし、だからこそ、彼・彼女たちから身を守るために「なぜ対話は大切なのか」という基本的な知識を身に付けておく必要があるとも感じている。

対話を騙り暴力を振るう連中から身を守るためには、彼・彼女たちよりも深く「対話」について理解する必要があるのだ。この時代、「対話」を突きつけられることからは逃れられない。であれば、対話についてより深く理解することでしか、ああしたカスどもからの加害を避ける手段はない。

本稿は誰もが肯定する「対話」「話し合い」という営みの、より本質的な意味について綴っていく。


対話は問題解決の手段ではない

まずはじめに、対話、つまりは「話し合い」にどんな意味があるのかについて確認しておこう。これが小学校の道徳の時間なら答えは簡単だ。

「話し合うことで平和的に問題を解決できるから」

とでも言っておけば教師は褒めてくれる。小学生の作文構文に乗せて「戦争はよくないと思いました。なので、ぼくも話し合いを心掛けようと思います」とでも書いておけばクラスの作文コンクールで銅賞くらいは狙えるかもしれない。しかしはっきり断言しておくが、対話を「問題解決の手段」とみなす考え方は根底から対話の意義を誤解している

当たり前だが、本当に深刻な問題は話し合いなどでは解決できない。

仕事上のトラブル全てが「話し合い」で解決できるなら裁判所は必要ない。国家や民族間の武力紛争に至っては対話のみで解決できたケースなど絶無に等しいだろう。できらぁ!と主張する方は今すぐウクライナでもガザ地区にでも行って「対話」の万能なることを示して頂きたい。「武力ではなく外交で解決!」とは左派言論人の常套句だが、まともに国際関係や地域研究に従事する研究者でああした世迷言に同調する人はゼロに近い。

しかし、にも関わらず、国家には外交というセクションがあり、国家間の対話の必要性が盛んに論じられている。これはどういうことだろう?端的に言えば、

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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