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解題「君たちはどう生きるか」

「君たちはどう生きるか」という作品を鑑賞するのは難しい。

難しいというか、あるひとつの前提を飲み込んでいないと作品世界全体が意味不明なものになってしまうのだ。その前提とはひとつ、「空想は現実に優越する」というある種の人々オタクのみが持つ特殊な感性である。その感性を極限まで突き詰めていった先にのみ、「君たちはどう生きるか」という作品は成立する。

実際、ホモ・サピエンスにとって「現実」と「空想」の境というのはほとんど存在しない。いやほとんど存在しないと言うフレーズですら正確ではなく、実のところ「ない」というのが正しい。それは法や貨幣や契約や国家といった空想の産物を我々が現実の一部として受け容れていることからも明らかだろう。現実と空想の間に境など存在しない。というよりは、我々ホモ・サピエンスは空想フィクションを通じてしか現実リアリティを知覚できない種族なのである。

そして優れたクリエイターオタクとは、巷に溢れる量産品の空想ではなく、自分だけのオリジナリティある空想を紡げる力のある者を指す。一般人は眼前の光景が現実である否かを他人の物差し(≒常識)によって判断するが、優れたクリエイターは自分だけの空想を以て世界そのものを塗りつぶしてしまう。王権の不可侵性、社会契約論、天賦人権説、万世一系の御皇統、史的唯物論…これらはすべて、時代時代の優れたクリエイターオタクによって紡ぎ出されてきた空想フィクションそのものだ。多くの人々一般人はそれを「現実」の一部分だと考えているが、実のところこれらはウルトラマンや仮面ライダーと同レベルの単なる作り話であり、空前の大ヒット上映を続けているがゆえに社会システムの一部に組み込まれてはいるものの、オタクによって紡がれた作り話という枠組みからは一歩たりとも出ていない。しかし繰り返すようにそうした空想を通じてしか、我々は現実を捉えられない生き物なのだ。

オタクとは、この構造に自覚的な人々のことでもある。現実の優越性をハナから信じない人々と言い換えても良いだろう。彼らにとっては現実の影として空想があるのではなく、空想の影として現実が存在するのみなのだ。

「(前作の)『崖の上のポニョ』をやっている時には僕の方が先に行っているつもりだったのに、時代の方が追いついてきた。(今回の映画で描いた)関東大震災のシーンの絵コンテを書き上げた翌日に震災(東日本大震災)が起き、追いつかれたと実感した」

引用:宮崎駿「時代が僕に追いついた」 「風立ちぬ」公開

つまり何が言いたいかと言うと、宮崎駿にとっては作中で描かれた「下」の世界こそが現実であり、世に言うところの「現実」(「上」の世界)はその一部分でしかあり得ないのだ。作中、空想の世界で折れた木刀が現実の世界でも崩れ去ってしまうのはそれ故で、彼にとって「現実」とは彼の空想を後追いするだけの感度の悪いスクリーンでしかないのである。

このような前提を踏まえていないと、「君たちはどう生きるか」は全く理解不可能な作品となるだろうし、現にそうなっているようである。巷に溢れる批評は作中人物を実在の人物と結びつけるようなゴシップ的なものがほとんどだが、作中世界をそのように安易に現実と結びつけることしかできないのは嘆かわしいと個人的には思う。そうした批評が許されるのは作中世界がペラッペラであった場合だけだろう。本作の物語世界は鑑賞に耐えうる十分な豊かさを有しているように筆者には感じられる。故にこの記事では作中の物事を現実世界の人間関係の投影とみる批評は一切取り扱わない。

本作をひと言で表せば、異界において「母との別離」と「継母の受容」を果たす少年の物語である。物語序盤、主人公の真人は様々な理由により精神的な危機に陥っている。空襲による母の死はもちろんだが、継母とも上手くやっていけない。疎開先の学校でも孤立している。緊張と疲労と心的外傷から、炎に包まれた母が自分に助けを求める幻覚と幻聴フラッシュバックまで生じる始末である。

そんな状況下にアオサギという空想世界の案内人が表れて、「実のところ母親は生きている」と持ちかけ、真人を異界へと誘惑する。もちろんこの異界は、序盤、木刀でアオサギを襲ったときと同様、真人の心の中にだけある世界だ。そういう意味では空想と言ってしまっても良いのだが、本稿で繰り返し強調しているように、宮崎駿にとって空想とは現実よりも高次な、それでいて各人の心とつながっている世界なのだ。ユングのいう集合的無意識のようなものを想像すればおそらく大過ない。

その異界の中で、真人は自分を守護する老婆や、懊悩する継母、そして少女時代の母に出会う。継母もまた異界に囚われているのは本作における重要なポイントだ。零落した名家の令嬢である彼女は、当然、恋慕によってではなく義務によって真人の父と再婚している。1945年当時、死別後の後妻として妻の姉妹を迎えることはごく一般的だった。家族をほとんど亡くし、望まぬ結婚を強いられ、懐かない連れ子に悩むナツコも真人同様、精神的な危機に陥っていたのだ。

異界の中で継母の苦悩を知り、そして継母が心から自分を想っていることを知った真人は、遂にナツコを「ナツコおばさん」ではなく「ナツコお母さん」として受け容れる。現実の世界においては困難を極めていた継母の受容が、空想世界を通じてようやく可能になったのだ。

もうひとりのヒロイン、実母ヒサコとの別離は物語ラストの「上」の世界に戻る場面において描かれる。真人はヒサコが空襲で亡くなることを告げ、そのまま元の扉(時系列)に戻ればヒサコが命を落とすことを告げる。しかしヒサコは「あなたのお母さんになりたい」として、近い未来に空襲で命を落とす未来を受け入れた上で、元の時系列へと帰っていく。このとき、この空想世界において、炎の中で助けを呼ぶ母の像は棄却される。炎に包まれる未来を甘受した上で、真人を産むことを決然と選択する母の像によって塗りつぶされるのだ。「優れたクリエイターは自分だけの空想を以て世界そのものを塗りつぶす」と先述したが、この場面こそが本作のクライマックスであり、最も重要なシーンだろう。確かにアオサギが言ったように、「母君は生きてい」たし、「あなたの助けを待ってい」たのだ。炎の中で助けを呼び続けるという偽りの姿ではなく、真実の姿を知ってもらいたいと願っていたのである。

とまぁ、「君たちはどう生きるか」の本筋をシンプルに解説するとこのような話になる。空想は現実に優越し、その空想の中でヒトは「真実虚構」を知る。そうして得た真実があるからこそ、真人も、そして我々も生きていけるのだ。本作は宮崎駿の自伝的要素が多分に含まれていると言われるが、精神的自伝という意味ではその通りだろう。前作「風たちぬ」においても現実に対する内的世界の優越という思想的告白が為されたが、それをさらに推し進めたのが本作の立ち位置である。

……本稿を読む方の多くは、そろそろ怪訝に思い始めているのではないか。「なぜ大叔父の存在と、空想世界の継承問題について語らないのか」と。正直に言ってしまうと、わりとハードコアなオタクであるはずの筆者でさえも、あのくだりには結構ドン引きしているからだ。つまり老境においてタガが外れた宮崎駿は、空想世界の均衡をどう保つかというオタク最大の問題について、あまりに赤裸々すぎる本音を開陳しはじめたのだ。

本稿で繰り返し説明してきたように、オタク宮崎駿にとって現実とは空想の下部領域にすぎない。空想において紡がれた物事がしばらくして現実において姿を現すのであり、その逆では決してあり得ない。

逆に言えば、空想世界が力を失えば、現実世界もまた力を失うのだ。真人がもしアオサギに導かれて「下」の世界に降りてこなければ、彼は永遠に継母と和解できず、母の悲鳴に憑りつかれ続けたままだったろう。空想世界があればこそ、ようやく現実も正しく回り始めるのだ。もちろん現実世界でまともにコミュニケーションできる多くの人々一般人にとってそんなことは全くないわけだが、オタク宮崎駿にとってこれは切実な問題なのである。

もし本作が「異界における二人の母との邂逅」というメインラインのみにスポットライトを当てて作られれば、こうまで難解な作品とはならなかっただろう。というか、作品としてはより良質なものになったはずである。本作は物語が後半に進むにつれて、本筋であるはずの二人の母のストーリーが重みを失っていき、大叔父の作る空想世界をいかに真人が継承するかという話が幅を利かせ始める。これは序盤から中盤にかけて紡がれた物語からは大幅に逸脱しており、唐突かつチグハグな印象をどうしても拭えない。

中盤、ヒミによって蹴散らされたペリカンが「ここは呪われた島だ」と嘆きながら死を迎える。この世界はワラワラモブと、それを食べるペリカンヴィランと、それを蹴散らすヒミヒロインによってのみ形作られており、ペリカンは望まぬままひたすらワラワラを喰い続けることを強いられる。そしてペリカンはもともと「上」の世界の住人であったのに、この世界を維持するために大叔父によって持ち込まれたという経緯が語られる。

ペリカンが息絶えたあとの「立派なペリカンでした」というアオサギの台詞にもあるように、彼は悪を為すことを強いられた「悪役」である。彼を蹴散らす役目を負うヒミはこの世界のヒロインであり、つまり、この世界が極めて歪な願望によって利己的に形作られていることが示唆されている。ペリカンはヒミを活躍させるための贄であり、だから「悪役」たちにとってこの島は呪われた島でしかあり得ない。

ここに、オタク創作者にとって最大の問題が提起されている。

つまり、

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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