「オタサーの姫」を囲うことでオタクは何を失うのか
先日のnoteでも書いたように、「オタサーの姫」とはコミュ障女子の適応戦略であり、女性側の視点から見れば確かに一定の合理性を有している。
コミュ障ゆえに女社会から排除されたコミュ障女子たちは、自らの性的資本を武器に男性コミュニティから包摂される道を選ぶ。
女社会では何のプラスにもならなかった「女であること」が男たちにとっては価値として機能し、ゆえに男性中心のコミュニティはコミュ障女子でも受け入れられやすい。オタクサークルを始めとする「姫」たちの玉座は、姫の傷ついた心を癒す揺り籠のような役割を持っている。
そこで少しずつ心を癒し、自尊心を回復させ、他人とつながる方法をゼロから学んでいく。コミュ障女子たる「姫」たちにとって、オタサーは癒しの場であると同時に学びの場でもあるのだ。彼女たちの多くはそこで回復し、そして成長し、ごく普通の女の子となってオタサーから巣立っていく。
良い話だ。いや、本当に良い話だろうか。
この話に欠けているのは、「姫」たちを育んだオタサーのオタクたち、つまり圧倒的マジョリティである「囲い」たちの存在だ。囲いが姫と男女として結ばれないのは言うまでもない前提だが、しかし「囲い」たちは単に姫の回復と成長をサポートするだけの、言ってみれば一方的に搾取されるだけの存在なのだろうか。彼らは、養分に過ぎないのだろうか。
本稿は「オタサーの姫を囲うことでオタクは何を失うのか」と題して、姫を囲うことの是非について考えていく。
姫を囲うことで失うもの
広く勘違いされていることなのだが、オタサーの「姫」と「囲い」を比べたとき、コミュ障が深刻なのは一般に「姫」の方である。
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