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令和のブスには人権がない

女社会はルッキズム容姿至上主義によって支配されている、というのは今やひとつの常識だろう。

男社会がメリトクラシー(能力至上主義)を基礎する価値観に強くビルドインされているように、女社会では容姿こそが最も重要な価値基準となる。スポーツに秀でていても、学業成績が優秀でも、絵がうまい歌がうまいなど何か一芸を持っていても、その子が「ブス」であるなら女社会ではおしまいだ。運動や勉強の得意なブスに憧れる女子は存在しない。逆にどれほど運動や勉強が苦手でも、美人であるならそれだけでその女子には価値があると女社会では見做される。

少女が憧れる童話といえば今も昔も「シンデレラ」がその筆頭だが、シンデレラがなんの能力的卓越も示さないのはわかりやすい一例だ。彼女はただ状況に流されるままに舞踏会に向かい、そこで王子様に見初められる。頭脳や身体能力ゆえではない。シンデレラは美人だった。シンデレラが幸福を掴み、いじわるな継母たちが不幸になるのは、全て容姿のみが理由なのである。

一方の男社会では、「能力」こそが価値の証明である。誰もが振り返るようなイケメンだとしても、頭も悪く身体もひ弱な「無能」であればそんな男に憧れる男は存在しない。むしろ醜男というハンデをものとせず己が才覚ひとつで成り上がるような男こそ男が惚れる男と言えよう。

「サル」だの「ハゲネズミ」だのとさんざんな容姿評価を得ている豊臣秀吉が昭和平成の時代多くのサラリーマンの理想像として憧憬されたのはその一例だ。秀吉はどう考えても美男子という歴史的評価からはほど遠いが、徒手空拳から成りあがったその才覚と剛腕が男心にどうしようもなく突き刺さるのである。

このように、女社会では「容姿」が男社会では「能力」が伝統的に尊ばれ、結果として男女の生き方はかなりの方向性の違いを示し続けた。

思春期以降、勉強や課外活動で男子が女子に差をつけ始めるのは「無能は男に価値は無い」という男社会の規範を男子が内面化し始めるのがその一因であろう。一方で女子は美容やファッションなどに関心を示す傾向が強いが、それもやはり「ブスな女に価値は無い」という女社会の価値観が大きな要因のひとつであることは疑いない。

とは言えいくら化粧やファッションを工夫したところで、容姿レベルの大幅な向上は期待できない。というわけで思春期ごろから女子は「将来に向けた努力」よりも「今この瞬間の楽しさ」を重視しはじめ、のほほんとした(あるいは人生を舐め腐った)享楽的な生活主義者に変貌していく。妊娠出産の影響がない10代20代ですら男女の正社員率には相当の開きがあることなどはわかりやすい。無論これは「女性差別」などではなく女性自身の選好の結果である(その証拠に不本意非正規率は驚くほど低い)。高い収入を得て自分の能力的卓越を証明するというモチベーションが低いことが女性を享楽的な生活主義者に誘導してしまっているのである。

このように、「男は努力」「女は享楽」という男女の生活指向の違いは、「努力してもブスは治らない」という物理的な現実に依るところが大きかった。ある意味で容姿至上主義とは自助努力を否定するイデオロギーなのだ。占いや運命学のようなオカルトが女社会に蔓延するのも、自助努力ではなく運命によってしか幸せになれないという諦観が女社会には蔓延しているのが一因だろう。

さて、ここまで従来型の女社会におけるルッキズムについて解説してきたが、今この構造に大いなる激震が走っているのをみなさんご存じだろうか。

無論のこと「美しさ=正義」という価値観が揺らいでいるわけではない。むしろそれはますます強化されている。しかし一方で、「努力したってしょうがないんだから人生を楽しもう」という女性的な享楽主義が、ルッキズムの名において批判されるようになりつつあるのである。

それでは一体どのような価値観が台頭しているのか。

端的に言えば、「ブスが人生楽しむ暇があったら

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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